特に、このような幕府の保護的宗教政策のもとにあり、封建支配の末端機構として制度化され、固定化し、創造性を失った仏教教団、公的身分を保証されて、あるいは堕落した仏教者に対して、近世民衆は、期待を持つことが出来ないばかりではなく、批判や排撃の動きさえ見せるようになっていった。こうした仏教排撃の動向が、顕著になっていくのが、幕藩制支配の動揺が見られる近世の中期から後期、幕末にいたる時期である。
この仏教排撃論は、よく知られているように、まず儒者や経世家から出されてきた。たとえば、東北の安藤昌益は農本主義の立場から神儒仏を攻撃し、大坂の町人出身の学者富永仲基は『出定後語』を書いて廃仏論を展開し、山片蟠桃は無神論を主張して神仏を拝むことを否定した。
また、これらの既成宗教への民衆の不満も、新しい宗教的教化によって解消される動きとして顕著となっていくのである。これが、いわゆる新宗教の輩出である。たとえば、石田梅岩の心学や平田篤胤の復古神道、黒住宗忠の黒住教、中山みきの天理教、川手文治郎の金光教、さらに日蓮宗の中から出た長松日扇の本門仏立講などである。
さらに、江戸幕府崩壊の直前、慶応三年(一八六七)夏、「ええじゃないか」の騒動が起こっている。これは、以前から周期的に起こっていた「おかげまいり」の伝統を受けた伊勢神宮への集団的参宮運動である。そして、これは封建支配からの解放を天照大神の神徳によって願うもので、いわゆる世直しを期待する庶民的信仰が、この時に突如として起こったもので、既成宗教、特に仏教への失望観、批判的風潮を背景とするものであった(第四章第三節参照)。
こうした仏教否定は、明治維新政府による、天皇の宗教的権威の復古としての神祇重視という宗教政策が打ち出されることによって、頂点に達するのである。つまり、神祇官の再興、神仏分離令の制定であり、その影響を受けた廃仏毀釈の激化現象である。但し、これは地域差が顕著であり、本市域については、改めて当該期の調査・研究が必要であろう。