〔前史〕
市域ではないものの、これら三組のうち最も古いものであり、史料的にもその存在形態が最も明らかな河内国葉室村(現太子町)に拠点を置いた葉室組の事例を通じて、当行者組織の存在形態を概観しておきたい(太子町壺井家(現在渡辺家)文書)。
西国三十三カ所巡礼そのものは、すでに中世前期から修験者らの行(ぎょう)の一つとして行われており、中世後期にはこの三十三カ所巡礼を三三度行う行が修験者らの間で盛んになっていたことが、各地の札所寺院に残された奉納札などから判明する。ただその多くは修験者らの個人的な行の一つとして行われたものであった。それが中世末期には、組織化され、勧進活動として霞場のようなものを設定し、行者を抱えた寺院の有力な財源と考えられるようになった。
この時代には複数の札所寺院が、三三度行を行う行者を、聖(ひじり)的存在として抱えていた。その一つに、葉室組行者組織の前身である熊野那智山(西国一番札所)に抱えられた行者組織があった。この組織はより正確には、那智一山内の序列では下位に位置する本願(那智には七つの本願が存在)と呼ばれた勧進組織の一つ那智阿弥によって支配されていた。ちなみに地方の大寺社クラスの多くに存在した勧進組織(その多くが本願(ほんがん)とか穀屋(こくや)とか呼ばれる)は、一山内での序列では低位に位置したものの、その集金能力によって、従来の社会秩序(中世的社会秩序)が崩壊し、新しい社会秩序(近世的社会秩序)が未だ確立していない段階(戦国期~近世初頭)には、実質的な力を所持していた。しかしながら近世国家による諸政策の実施と、それにともなった近世社会の確立によって、再び従来の秩序を取り戻そうとする勢力が台頭した。那智山の場合、社家中と呼ばれた存在がそれに相当する。彼らは藩(紀州藩)権力をバックに付けるかたちで、幕府法廷に本願らの権限の削減を訴え続け、最終的には本願の持っていた利権の大半を奪うことに成功した。その一つに那智阿弥が持っていた三十三度行者組織の支配権も含まれていたのである。
一方、那智阿弥のほうも、この間手をこまねいていたわけではなく、社家中との争論を有利に導くために、公家花山院家を頼っていた。これは花山院家の武家伝奏としての幕府への一定の影響力とともに、西国三十三カ所巡礼を再興したという伝承を持つ花山法皇の遺邸を受け継いでいる花山院家の「伝統」や「由緒」が期待されたためであろう。
〔公家花山院家の家職化〕
しかし那智阿弥の思惑は、行者の年籠(年末に入山し正月を迎える修行)場所であり続けるという最低限度の権利のみを確保し、最終的に否定された。そして以後は、公家花山院家を本所とした行者組織の活動が近世を通じて(明治四年まで)行われるのである。
花山院家による行者組織の支配は、社家中と那智阿弥との争論が最終的決着をみない元禄一〇年(一六九七)から、行者の活動を理念的に保証する廻国縁起の割符発行というかたちで開始される。そしてその後徐々に、組織内の問題のみならず、組織外に係わる側面においても、当行者組織の本所としての実質を確立していく。ただし、行者に街道の通行権を保証する会符(えふ)を自ら発給できないなど、行者の「交通」に関しては基本的にノータッチであった。この点に象徴的なように、花山院家の行者組織支配は、近世公家らの家職支配の多くの事例とは異なり、幕府による正式な公認を得ていなかったと考えられる。
〔拠点寺院仏眼寺〕
こうした支配のトップの移動に伴い、行者活動の拠点も那智阿弥から河内国葉室村仏眼寺に移された。当寺が選ばれた積極的理由は史料的に不明であるが、その理由の一つに、すでに中世から流布していた花山法皇の西国巡礼再興の際に先達を勤めた仏眼上人伝承と係わる当仏眼寺に拠点をおくことによる、組織の権威付けの目的があったことは事実であろう。
当寺は中世には北朝・南朝両朝廷から帰依をうけるような在地有力寺院であったが、織田信長の高屋城攻撃の際に焼失し、やがて後述する壺井家によって復興されるが、拠点が移された当時宗派は叡福寺(朱印寺院)花蔵院末の古義真言宗であり、当地の領主旗本石川氏から寺屋敷地の年貢免除を獲得した地方小寺院であった。そして行者組織の拠点となった当寺の運営は、法制度上は、満願した行者の内住持株を取得できた四人が輪番住持体制で行い、活動中の行者四人はその下で当寺の寺僧身分として行(実質的には勧進活動を伴う)を行っているのである。なお、住持株・行者数の四人という人数は、中世以来の花山法皇による西国巡礼再興伝承に基づいたものである。
〔仏眼寺支配人壺井家〕
このように、仏眼寺には制度上正式な住持が存在したものの、現実には当寺を復興した「仏眼寺支配人」壺井家によって実質的支配をうけていた。
壺井家は花山院家と行者組織の間に入り、日常的な組織の管理運営を引き受ける(このような存在を組織の「世話人」と呼ぶ)一方で、徐々に勢力を蓄え領主の在地代官に成長し、近世を通じて在地有力者たる地位を誇っている。