運営形態

934 ~ 937

前述したように、行者の活動形態は、宿と呼ばれる恒常的信者宅(旅館のようなものではなく行者、正確には「セタ筋」と結縁をした信者の家を指し、行者組織と結縁関係=信仰的機能関係を結ぶ)を廻り、各宿で背負ったセタ(背駄=笈)の開帳をしながら西国三十三カ所巡礼を繰り返し、原則的にはこの行(ぎょう)を年に三度、一一年かけて三三度行って満願となる。満願に際しては必ず満願供養が執行されるが、それは供養施主となった者(経済的負担から地方有力者が大半)の地元で執行される。これは施主自身が領主と奉行所から正式に許可を得て行われるものであるが、その際には広範囲から多くの民衆が集まり、願主(満願した行者自身)の体得した功徳とともに振る舞われる飲食物が期待された。そしてその場で、「世話人」壺井家を通して花山院家の名の入った供物什物が下賜され、その披露などを通じて当行者組織の本所としての花山院家の名前が社会的認知を獲得していったと考えられる。なお、供養施主や供養の世話人らは、その名を刻んだモニュメントである供養塔を建て、自らの信仰心と財力を社会的にアピールした。

 供養後、満願した行者はセタと宿を弟子である次の行者に譲り(これを「セタ筋」と呼ぶ。つまり当組には四つの「セタ筋」が存在)、そのうち住持株を獲得できた場合に限り仏眼寺住持になる(住持株を獲得できなかった事例もいくつか判明しているが、そのような場合にも、当組織と完全に無縁になることはないようである)。

 以上、西国三十三度行者組織の一つ葉室組の近世における存在形態を概観したが、注目すべき点を以下列挙しておく。

 一点目は、活動拠点仏眼寺と公的(法制度上の)本末関係にある本寺叡福寺花蔵院が、末寺仏眼寺が行者組織の拠点となることを否定せずむしろ推進したことである。花蔵院は行者支配が再編されて間もない享保二年(一七一七)七月、仏眼寺行者四人に宛てて「依有西国三十三所順礼の因縁而、当寺本尊観音尊像并古證文相添、各せいた(セタ=行者のこと)四人中致附属者也(括弧内筆者、以下同)」と本尊・古証文を譲渡し、仏眼寺の実質的独立を認めている。

 二点目は、一点目の譲り証文により仏眼寺は実質的に無本寺同様になったにもかかわらず、ケースバイケースで本寺が登場することである。これは奉行所などへの上申文書に典型的にみられるが、それ以外にも半ば公的な文書に「本寺表」という表現がみられ、さらに先の譲り証文自体にも「若就此附属一途而従(他方)何様之異論申出候共、従此方其埒明之候」と記され、法制度上の本末関係は決して消滅してしまってはいない。

 三点目は、公家花山院家は単なる得分収得者に留まらず、組織外争論にも関与するなど本所としての実態を持ったものであったが、それは幕府からの公認を取りつけたものではなく、むしろ徐々に確立していった(させていった)社会的認知をよりどころとして、終始当行者組織の支配を続けていったことである。

 以上三点から、当行者組織は一方で国家権力による強制を受けた宗派上の本末制度を完全には否定せずに、新たな支配形態を作り上げたと言えよう。つまり、本寺―末寺=村落寺院(住持)―寺僧<法制度的側面>と花山院家―拠点寺院=村落寺院(満願行者による住持株所持)―活動中の行者―信者(宿)<実質的側面>の並存を基礎に、行を行う行者の視点からは、本所―行者―信者(宿)、拠点寺院の運営という面からは、寺支配人―拠点寺院(師匠)―行者(弟子)―信者(宿)、行者活動の宗教的大義名分という面からは、那智(那智阿弥)―行者―信者(宿)、宿の視点からは、前願行者(師)―行者(資・師)―宿(檀那)と細分化でき、おのおの複雑に絡まり合いながらも、それぞれの関係が実質的意味を持って存在していたのである。

 さらに四点目として、存在する地域社会との関係では満願供養が大きな意味を持ったことである。つまり「世話人」壺井家のみならず、供養施主や供養世話人になるような村落上層、満願供養を一面祭りの空間として期待する若者組、同じく精神的側面と同程度に飲食物など物質的側面を期待した下層民に至るまで、あらゆる階層の人々に存在意義を持っており、社会的秩序維持機能を担っていたと言えるのである(以上、図40概念図①参照)。

図40 概念図