市域に存在した三十三度行者組織

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 〔嬉組について〕

続いて、葉室組に比べると必ずしも明確な姿は分からないが、市域に存在する二組の行者組織について概観する。

 まずは河内国嬉村に拠点を置いた嬉組の場合である(嬉上野家文書・嬉中川家文書)。当組の存在が史料上明確に登場するのは、天明四年(一七八四)三月の葉室組行者との争論である。この争論は、当時正式な本所を持っていなかった嬉組五人行者(当組は別の西国巡礼再興伝承に基づき五人行者)が、その一人良順の満願供養に際して、奉加帳に勝手に花山院家の名前を名乗ったとして、葉室組行者から花山院家に対して訴えが出されたものである。花山院家は新たな組織が傘下に入ることを頭から否定してはいなかったようであるが、葉室組行者の主張を受け入れ、嬉組行者の花山院家の名乗りは否定された。

 これが文書史料上の嬉組の初見であるが、嬉村の会所(旧金胎寺)に所蔵されていた什物箱に「宝暦七年丑三月辰日 供養仏西国三十三度供養什物箱 大先達五人供養什仏物 嬉村」と記されていたことが確認されており、この前後に村主導で行者組織が招致され、村抱「世話人」体制(個別の人物・家が「世話人」になるのではなく、村落共同体が「世話人」となる体制。但し実質的には村落上層の数家が共同で「世話人」になっている)で活動を開始していたと考えられる。

 このことを窺わせるものとして、さらに当組の拠点があげられる。当組の拠点は、大念仏宗寺院金胎寺、あるいは古義真言宗の腰神庵であるが(当村の宗教施設はこの二カ所)、前者は村明細帳に「大念仏宗金胎寺村中支配ニ而看坊指置申」と記されており、他の村明細帳をみても終始正式な住持は置かれなかった(置かなかった)ようで、当村の住人の宗判は金胎寺の本寺にあたる古野村極楽寺一カ寺が行っている。一方、後者は法制度上はあくまで庵で本寺はない(明治以降神社)。そのため庵主の決定権は村落が持っていたようで、村明細帳でも無住の場合が多い。しかしながら、当村の精神的基盤はこれら二カ所の村内宗教施設にあったようで、特に金胎寺には表紙に「過去帳 金胎寺」、後書きに「右過去帳地下中ゟ志以相調候、然所経木帳を写候故、日附順達罷成候、以上、明和四亥正月写之」と記された、村民自らが経木帳を調べ作成した過去帳を残しており、この過去帳は現在に至るまで村民の手によって書き継がれている。このような性格の過去帳が前述の什物箱の日付(宝暦七年)から数年後の明和四年(一七六七)に作成されていることも、行者組織招致がこの時期に村の主導によって行われたことを推測させる事実であろう。

写真240 嬉の現景

 さて天明四年に花山院家の名乗りを否定された当行者組織は、二年後、

      河州錦部郡嬉村御背板五人行者(人名略)

右年来 光台院御所江致立入候以由緒、今度御室御所参入願之事被遂 御許容訖者、信心之修行不申怠、可有如法進退候也、

 天明六年三月十六日                   土橋大蔵卿(花押)(他三人略)

と御室仁和寺の支配下に入り、以後仁和寺を本所とした行者組織支配が行われる(なおこの史料から当組の前身が上醍醐〔西国十一番札所〕光台院であったことが推測される。そしてこうした前身の違いが四人行者と五人行者という組織にかかわる伝承の違いにもつながったと考えられる)。そして「世話人」は村役人クラスの人物が複数で勤めたようである。最初の満願行者良順の供養施主には庄屋上野又兵衛家の分家上野五郎兵衛(年寄格)がなっているが、彼は満願後腰神庵の看坊を勤めて一生を終えた良順の葬式まで取り行っている。次に表舞台に登場するのは庄屋上野又兵衛である。彼は寛政一三年(一八〇一)に行者随教の供養施主になる一方で、晩年には(庄屋引退後と考えられるが)御室で得度を受け、良順死亡の翌年(文化五年)には腰神庵の看坊を引き継ぎ御室から「御紋附・御提灯」を下賜されている。さらに史料的には不明であるが、残りの村役人格の数家も当組の管理運営に関与していたようで、明治期以降は五つのセタがこれらの家を継いでいる八家(三基は二軒の共同管理で四基現存)で共同管理運営がなされていた。以上のような意味で、当組の場合はまさに村抱「世話人」体制と呼び得る支配体制であったと言えるのである。ちなみに嬉村では、当行者組織を抱えていたことによって、周辺諸村以上の特権を持っていたという古老の伝承が確認された。

 なお、活動形態は文書史料がほとんど残っていないので正確な点は不明であるが、供養塔や供養の際の幟などの存在から葉室組の場合と大差はなかったと考えられる。

 以上、葉室組の場合とはその伝来と「世話人」体制に若干の相違がみられたことが嬉組行者組織の特徴である。このうち後者については、やはり当組の拠点となった寺院の性格に大きく係わっていると思われる。つまりそれらが一面「村抱」寺院であり、庵主などの決定権を村(正確には村役人層)が握っていたことが、「世話人」についても彼らの共同体制をとらせた要因であろう(以上、図40概念図②参照)。

 〔富田林組について〕

 当組は河内国富田林村(現富田林市)の大念仏宗浄谷寺に拠点を置き、御室仁和寺を本所とした行者組織である。

 一六世紀中期に真宗興正寺の寺内町として成立し、以後近世前期まで保ち続けた村内における興正寺御坊(以下御坊と略す)の絶対的地位は、「近世村落寺院」(宗判を行う村落差配寺院)としての妙慶寺(真宗西派)と浄谷寺の成長にともない一定程度相対化された。しかし近世を通じて、御坊優位の構図は、寺内町として成立した当村内のみならず、周辺地域でも揺るぎないものであった。さらに村落上層は宗派・檀家関係に係わらず、自らの社会的地位(家格)を保持するためには御坊に接近せざるを得ず、同時に他の村内寺院の(御坊優位と矛盾しない限りでの)繁栄も必要であった。

 このような状況下で他宗派の村内寺院浄谷寺が行者組織の拠点になり、それが社会的認知を獲得するためには(従来の村内秩序を左右しないかぎりで)何らかの契機が必要であった。それは他村(毛人谷村)の百姓身分の者車屋新兵衛が浄谷寺を経済的に掌握し、彼の存在が社会的に認知されたことであった。

 彼は残された証文類から分かるように(富田林田中家文書)、身分的には一貫して富田林村の隣村毛人谷村の百姓であった。しかし表122にみられるように、富田林村で広範な利貸経営を行い、本家が富田林村の住人であったことも手伝ってか、富田林村に進出をはかっていた。一方、木綿の古手商として紀州熊野辺に得意場を持っていたようであり、ここで行者組織となんらかの関係を持ったのであろうか、この時期に彼は浄谷寺の行者の口入れを行うようになっている。そしてやがて経済面での掌握とあわせ、浄谷寺の「世話人」の立場を手に入れる。

写真241 文久2年 行者引請につき一札(田中家文書)
写真242 浄谷寺
表122 車屋新兵衛の利貸経営一覧(田中新之助家文書による)
年月日 内容 備考
弘化4.7. 銀子140匁を富田林村仲屋嘉兵衛に貸与
嘉永1.4. 銀子600匁米屋徳兵衛らに貸与(同年11月にも)
嘉永3.12. 毛人谷村領内字国東の上田等計1反6畝12歩を礼銭850匁で購入
嘉永4.6. 銀子456匁の負債たてかえ(富田林村たばこや新兵衛の負債)
嘉永7.8.8 金5両を十津川永井村千葉謙蔵に貸与
嘉永7.12. 借家経営(1カ年70匁で布屋七兵衛に)
安政2.7. 字稲葉大ケ塚屋長兵衛屋敷他計5畝8歩を礼銭343匁で購入
安政3.6. 仲村本家から毛人谷村字堀ケ内上田等を礼銭1貫260匁で購入
安政3.6. 富田林村伊兵衛から上田等計1反7畝15歩を礼銭1貫530匁で購入
安政3.7. 借家経営(1カ年116匁5分で新堂村りつに) 畳数28畳
安政3.11. 富田林村つるから家屋敷地(18坪3歩)、建家(6間×3間)、雪隠(1間×半間)、片おろし高塀を銀3貫400匁で購入 境界の西北浄谷寺
安政3.11. 茂松から字国東久畑等計4畝21歩を礼銭260匁で購入
安政5.5. 利息月1分で金物屋善兵衛から銀50匁借りる
安政5.7. 車屋次兵衛から字脇谷溝之上荒畑等計2畝10歩を礼銭290匁で購入
安政5.12.晦 講惣代京屋新兵衛に銀600匁を貸与
安政6.10. 富田林村飴屋伊右衛門(百姓代)から山1枚(建木とも)を礼銭1貫目で購入
安政7.3. 月1分の利息で富田林村徳兵衛から銀100匁借りる
万延1.閏3. 毛人谷村の屋敷地の一部を質入れ、月1分の利息で銀子400匁得る 翌11月限る
万延1.8. 借家経営(浄谷寺檀家たか)
万延2.1. 毛人谷村の屋敷他の一部を質入れ、月1分の利息で銀子420匁得る 翌11月限る
文久1.4.11 月1分の利息で富田林村京屋市兵衛に銀子439匁2分5厘を貸与
文久1.5. 本浦庄右衛門から金10両2歩を取り立てる
文久2.閏8. 新堂村伝右衛門に銀1貫500匁貸与
文久2.閏8. 山田村かめから毛人谷村内上畑(1反9畝3分)、建家4カ所(各雪隠数個付き)、井戸1カ所を礼銭4貫250匁で購入 各建屋の規模省略
文久2.10. 平尾屋から毛人谷村内荒田12カ所計1反2畝3歩を礼銭2貫300匁で購入

注)車屋新兵衛に直接関係しない証文などは省略した。

 この立場は、富田林村全体で承認されていたようで、安政四年(一八五七)四月に行われた浄谷寺の玄関の建て替えに際して、富田林村の新株方(村内の株分に関しては近世編第3章参照)のトップであった仲村家から浄谷寺へ金百疋の寄進が行われているが、その時(浄谷寺玄関の)「上棟祝儀として如此世話人車屋新兵衛方へ為持参候」と、「世話人」車屋新兵衛を通して寄進を行っている。なお、浄谷寺の檀家総代は別に存在している(『仲村家年中録』)。

写真243 「年中録」安政4年4月6日条 (仲村家文書)

 ここに至って初めて、浄谷寺の持つ二面性(大念仏寺末の村落差配の宗判寺院と御室仁和寺を本所とする西国三十三度行者組織の拠点寺院)が正式に表面化した。ただし、車屋新兵衛の浄谷寺に対する影響力は、原則的には後者に関するもののみで、制度上の本末関係などは従来どおり存続している。

 次に、今述べたことを補強する意味も含め、当組の前身と組織化について述べておく。当組の前身は中山寺(西国二十四番札所)にあったと考えられる。話が前後するが、浄谷寺と西国三十三度行者が関係を持つ初見は、浄谷寺の檀家多治井屋宗清(現田口家)が中山寺の行者として満願し、その供養が浄谷寺住持智常を導師として行われた元文三年(一七三八)段階である(浄谷寺所蔵三十三所観音画像裏書)。ただしこれは、一檀家が西国札所寺院の行者(近世においても多くの札所寺院が勧進活動の一環として同様の活動形態をもった行者組織を持っていたと考えられる)になったことにより関係を持ったに過ぎない。この後、少なくとも天明三年(一七八三)までには、浄谷寺に御室仁和寺を本所とした行者組織が成立していた。しかし以後文政九年(一八二六)まで三度の満願供養がすべて和泉の地方有力寺院高蔵寺で行われていることと、文化年間の御坊との由緒をめぐる争論の際にも、御室仁和寺配下の行者組織包摂の事実を主張できていない(富田林杉山家文書)ことからも窺えるように、この段階の行者組織包摂は未だ村内の認知を得ていなかった。それが正式に社会的認知を獲得するのは、前述のように他村の車屋新兵衛が浄谷寺を経済的に掌握し、その利害関係と村落(上層)の利害関係が一致した段階だったのである。ただいずれにせよ、当組の本所になる御室仁和寺と中山寺の密接な関係(近世は本末関係にもある)も含め当組の前身が中山寺にあり、その組織化は社会的認知を獲得する以前に成立していたことは事実であろう。

写真244 西国三十三所観音像

 なお、その活動形態は嬉組と同様の理由で、葉室組と近似していたと考えられる。

 以上、富田林組についても、その前身と「世話人」の性格に若干の相違がみられた。そして後者の相違は、やはり拠点寺院の性格の違いによるものであろう。つまり当組の拠点浄谷寺は近世初頭から本末制度に組み入れられた宗判寺院として機能しており、結果、村内有力層の「秩序」を微妙に維持していく存在になっていた。がために、「世話人」には村民ではない人物が就く必要があり、村内有力層は一定度距離を置いて接するという体制が出来上がっていったと考える(以上、図40概念図③参照)。

 このように南河内地方の村落寺院に拠点を置いた三組は、ほぼ同様の活動形態をとりながらも、その活動拠点(本末制度下の地方寺院)の性格の差によって、「世話人」の性格という面で明らかな相違をもって存在していた。しかしながら逆にこのことから、本来の近世の諸制度(本末制度など)を一定度踏まえたうえでなければ展開できなかった一民間宗教組織の姿が明らかになったであろう。