三十三度行者組織と地域社会

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次に若干視点をかえて、当組織と地域社会との関係をみたい。

一般に近世後期から幕末期には、地域社会から勧進者・廻在者が忌避されたという一般原則(ただし村方や地域の議定書などの文面での)が知られている。にも係わらず、前述した行者組織は三組とも当該期にも盛んに活動を続けている。それはなぜ可能であったのだろうか。

 その理由の一つは、当行者組織と地域社会の関係性にあると考えられる。つまりこれら三組は地域社会との関係でまとめると、ともに社会的地位の獲得を目指す「世話人」、社会的秩序維持・個人の社会的名誉を期待する村落上層(嬉組に関してはこの両者が一致)、さらには満願供養に際して「祭り」的要素を期待したと思われる若者層(複数の村の若者組が組織だって行者の満願供養で役を勤めている史料が存在)、そして供養の際の精神的・物質的両面での「施行」を期待した下層民衆に至るまで、あらゆる階層にとって有益なものであった。そしてそれが現在見つかっている供養塔のみからでも一〇〇回以上取り行われたことが分かる。つまり当組織は、行者(「セタ筋」)と結縁しその信仰面を期待する恒常的信者=宿にとってはもちろんであるが、満願供養を行うことによって、宿でないものにとっても充分に意義を持ち得たのである。むしろそう認知されない限りは、富田林組の場合に明らかなように、組織包摂の事実はあくまでも組織内部の問題に過ぎず、場合によっては公言すらできなかったのである。

写真245 西国三十三度満願供養宝篋印塔 (浄谷寺境内)

 そしてこのことには、当組織の活動拠点であった紀州・摂津・河内・和泉の各地域、中でも拠点寺院が集中した南河内地域の地域的特質が大きく影響していた。すなわち、この四カ国のうち紀伊以外の三カ国は、いわゆる「非領国」で、個別領主権力の影響が領国地域と比べると大きくなかった(政治構造上の問題)。同時にこの三カ国は「天下の台所」大坂のバックグラウンドとして経済発展を遂げており、特に河内地域は綿作を中心に大きな経済力を持っていた(経済構造上の問題)。表118によれば、近世に行われた葉室組の満願供養で判明する九一例の内(ただし、便宜上一六〇〇年以降とする)、河内が二一回・和泉が一三回・紀伊が三三回であるが、文化期以降の一三例に限ると河内が一一回・和泉が二回と、この両国ですべての供養が行われており、特にほとんどが河内で行われている。一般にこの時期は近世社会の矛盾がもっとも露呈する時代であり、公権力による風俗取締令も頻繁に出されるとともに、地域社会からも経済的困窮を理由に勧化や廻在者を「排除」した時代であった。そのような時期に経済的負担の非常に大きい供養が、この地域に限って繰り返されて行われているということは、当行者組織の存在形態以外に、前述の政治的・経済的要因を抜きには理解できないであろう。

 ちなみにこの供養にどれほどの経済負担が掛かるかをみておきたい。これも葉室組の事例であるが、安永二年(一七七三)に行われた和泉の小川忠兵衛という庄屋格の人物が施主となった満願供養の場合、一冊の奉加帳に記されただけで一〇貫五七六匁もの費用が掛かっている(ただし半分は他からの奉加による)。さらに前述したように供養施主は、供養の実施まで、領主と奉行所などへ諸々の願書を自ら出さねばならず、そのための諸雑費なども加味すると一回の供養に掛かる費用、中でも施主の負担は莫大なものであったと考えられる。にもかかわらず、このような供養が、幕末期まで大きな中絶期間を置くことなく続いているのである。

表123 葉室組行者過去帳
行者 過去帳 軸装過去帳
(――は該当する行者の記載がないことを示す)
供養年月日 供養施主 供養取立または供養施主
(※は過去帳と異なる記載)
出身
祐順法師 慶長五(一六〇〇)・二・吉 城州小原 小兵衛 ―― ――
法覚法師 慶長七(一六〇二)・三・吉 江州中之庄 与左衛門 ―― ――
祐清法師 慶長九(一六〇四)・二・吉 摂州鴻之池 新右衛門 (※熊野 那智阿弥)*1 (京室町二条通)
乗福法師 慶長一一(一六〇六)・正・吉 那智山 那智阿弥院 ―― ――
宗賢法師 慶長一二(一六〇七)・二・吉 和州金剛山 実相院 ―― ――
春蔵法師 慶長一三(一六〇八)・三・吉 法華山 地蔵院 ―― ――
宗円法師 慶長一五(一六一〇)・二・吉 紀三井寺 滝本坊 ―― ――
福泉法師 慶長一七(一六一二)・三・穀 播州式地村 六良左衛門 ※紀三井寺 滝之坊 播州人
浄円法師 元和四(一六一八)二・吉 山城樫木原 市右衛門 ―― ――
宗円法師 元和六(一六二〇)・三・吉 播州清水寺 別当 ―― ――
道泉法師 元和八(一六二二)・二・吉 摂津鴻之池 新右衛門 ―― ――
春慶法師 寛永二(一六二五)・二・吉 吉峰<ママ>寺 成就院 ―― ――
泉蔵法師 寛永四(一六二七)・三・吉 谷汲寺 本願坊 ―― ――
祐菴法師 寛永五(一六二八)・二・吉 丹州穴宇<ママ>寺 新左衛門 ―― ――
法円法師 寛永六(一六二九)・正・穀 紀三井寺 本願坊 ※紀三井寺 滝之坊 高野山住
浄意法師 寛永八(一六三一)・三・吉 山城吉峰<ママ>寺 成就坊 ※河内廿山村 小右衛門 高野山
祐西法師 寛永一一(一六三四)・二・吉 紀州西飯降村 太良右衛門 伊都郡西飯降村 太郎左衛門 河州錦郡住
宗心法師 寛永一二(一六三五)・二・吉 和州丹波市 勝左衛門 和州丹波市 中村庄左衛門 紀伊伊都郡中飯降村
祐清法師 寛永一四(一六三七)・二・吉 河州廿山村 小右衛門 (※熊野 那智阿弥)*1 (京室町二条通)
円海法師 正保二(一六四五)・二・吉 紀三井寺 法印宥範 紀三井寺 本願宥範 高野山之住
正円法師 正保三(一六四六)・二・吉 紀州ミカツラ村 田所 ※河州錦郡西コリ 源兵衛 観心寺住
順清法師*2 ―― ―― ※和州高市郡橘村 浄春 高野山住
願清法師 慶安二(一六四九)・正・吉 那智山 那智阿弥院 ―― ――
宗清法師 慶安四(一六五一)・二・吉 河州錦郡村 源兵衛 ―― ――
深泉法師 承応二(一六五三)・二・吉 和州橘村 ―― ――
長順法師 承応三(一六五四)・正・穀 那智山 那智阿弥院 熊野山 那智阿弥 河州錦郡天野山住
浄慶法師 明暦四(一六五八)・正・吉 和州黒崎村 与助 (以下は過去帳とほぼ一致。略) 和州山辺郡丹波市住
円鏡法師*3 万治四(一六六一)・二・吉 紀州有田郡広之庄 鹿瀬六良太夫 高野山住
休存法師 寛文二(一六六二)・二・吉 伊都郡賀勢田中村住 賀多山作左衛門重直 和州長谷寺住
行泉法師 寛文三(一六六三)・二・七 和州壺坂山 内証院長栄 和州吉野住
道祐法師 寛文四(一六六四)・二・吉 河州錦郡向田村 六右衛門 高野山
円清法師 寛文一一(一六七一)・二・三 和州丹波市 中村庄左衛門尉家次 和州平群郡妻安住
宗心法師 寛文一二(一六七二)・二・五 泉州池田谷平井村 高橋次良左衛門家頼 高野山
順良法師 寛文一三(一六七三)・二・一七 河州錦郡伏見堂村 左仁左衛門利貞 和州吉野郡比曽村住
宥教法師 延宝三(一六七五)・二・一七 奥州池田谷黒石村 善右衛門 丹州笠郡鹿原山
清存法師 延宝九(一六八一)・二・一〇 紀州名草郡日方之住 尾崎清太夫重信 紀州牟婁郡冨田庄見草村住
順正法師 天和二(一六八二)・二・一六 奥州池田谷国分村 堀三太夫宗清 天野山
順教法師 天和三(一六八三)・二・晦 河州丹南郡半田村 北徳兵衛宗雪 摂州大坂住
阿闍梨真海 貞享二(一六八五)・二・一六 泉州横山谷北田村 出合次良兵衛浄宥 河州天野山
清心法師 元禄二(一六八九)・閏正・吉 紀州那賀郡麻生村 間江野善太良宗常 紀州那賀郡名手馬宿村
順円法師 元禄三(一六九〇)・三・一六 播州加西郡綱引村 高田市兵衛政治 紀州牟婁郡冨田庄溝端村
良運法師 元禄六(一六九三)・二・八 泉州横山谷北田村 出合久太夫宗久西連 紀州那賀郡池田之庄西三谷村
覚心法師 元禄八(一六九五)・二・一三 河州錦部郡彼方村 寺内平右衛門 泉州泉郡横山谷北田村
清元法師 元禄一一(一六九八)・二・一三 紀州海士郡舟尾村住人 藤松吉左衛門正継 紀州那賀郡田中庄井坂村住
快円法師 元禄一三(一七〇〇)・二・六 紀州日高郡南部住人 山内勘右衛門 紀州那賀郡友淵庄和田村住
教音法師 元禄一五(一七〇二)・二・六 紀州日高郡小松原住人 岩崎長三郎正森 和州内郡木之原村住
澄海法師 元禄一七(一七〇四)・二・一二 泉州大鳥郡和田谷野々井村 桜井徳兵衛 越中国砺波郡中条住
理元法師 宝永七(一七一〇)・四・八 河州錦部郡錦郡村 田中源左衛門 紀州室郡日向村
阿闍梨深識 正徳元(一七一一)・二・一〇 紀州那賀郡名手庄野上村 額田新右衛門義重 紀州那賀郡馬宿村
教順法師 正徳三(一七一三)・二・吉 紀州那賀郡田中庄上野村 井畑又重郎秀俊 丹州桑田郡鎌倉村
円海法師 享保二(一七一七)・二・九 泉州泉郡横山谷北田中村 出合次兵衛 紀州上那賀郡後田村
元清法師 享保五(一七二〇)・二・九 紀州日高郡吉原浦 小沢弥平次久次 紀州上那賀郡馬宿村
識順法師 享保七(一七二二)・二・三 紀州那賀郡名手庄西野村 孫八政貞 紀州上那賀郡馬宿村
教心法師 享保一〇(一七二五)・二・朔 紀州伊都郡市原村 森田久右衛門正広 河州錦部郡市村
円頂法師 享保一三(一七二八)・二・一三 河州石川郡葉室村 壺井七良兵衛忠亮 泉州泉郡北田中村
清円法師 享保一六(一七三一) 紀州伊都郡中下村 井上幸右衛門 紀州那賀郡畑毛邑
快順法師 享保一八(一七三三)・二・六 紀州那賀郡名手庄後田村 又之丞 紀州上那賀郡名手西野村
順照法師 元文二(一七三七)・二・一三 紀州伊都郡妙寺村 妙中源兵衛 河州錦部郡上岩瀬村 於高野山受戒
久栄法師 寛保二(一七四二)・二・一六 河州丹南郡半田村 山中作右衛門 河州丹南郡半田村
円真法師 延享三(一七四六)・二・四 泉州南部久米多寺内池尻村 前田嘉平次 河州錦部郡四釣樟村
栄証法師 宝暦四(一七五四)・二・二 紀州伊都郡佐野村 前川九左衛門 紀州那賀郡畑毛村
教円法師 宝暦六(一七五六)・二・八 紀州伊都郡妙寺村 田村伝右衛門定宣 紀州室郡田辺住
円正法師*4 宝暦九(一七五九)・二・七 紀州那賀郡下井坂村 宮井佐太郎政清 紀州那賀郡堀口村
恵順法師 宝暦一一(一七六一)・二・一二 泉州泉郡下宮村 友田政右衛門宗政 泉州大鳥郡岩室村
観信法師 明和二(一七六五)・二・一三 河州錦部郡向井野村 辻野作弥定勝 紀州那賀郡岩出庄中通村
教善法師 明和五(一七六八)・二・一一 紀州伊都郡市原村 森田元五郎 河州丹南郡平尾村
円要法師 明和七(一七七〇)・二・二三 河州錦部郡彼方村 土井又右衛門正光 河州錦部郡原村
長順法師 安永二(一七七三)・二・一一 泉州泉郡福瀬村 小川忠兵衛正秀 泉州泉郡倍田原作村
覚心法師 安永五(一七七六)・二・四 紀州伊都郡加勢田中邑 木下利兵衛光長 紀州那賀郡岩出庄西野邑
了山法師 安永八(一七七九)・二・三 紀州那賀郡名手馬宿村 野田佐次右衛門友光 河州石川郡葉室村
智教法師 安永九(一七八〇)・二・二〇 河州丹南郡平尾邑 北野善右衛門 泉州大鳥郡〔  〕
長伝法師 天明四(一七八四)・二・九 泉州大鳥郡菱木村 岩井徳左衛門 泉州泉郡信太山谷
自証法師 天明九(一七八九)・二・七 紀州那賀郡山崎庄中埜邑 佐伯雲平清恒 紀州那賀郡山崎庄畑毛邑
快心法師 寛政四(一七九二)・二・一九 河州錦部郡向野村 亀田半允高政 紀州日高郡茨木村
長順法師 寛政六(一七九四)・二・一一 紀州伊都郡市原村 北浦藤助 泉州泉郡和田村
善応法師 寛政八(一七九六)・二・五 紀州伊都郡柏原村 森本伊八郎 河州古市郡古屋敷
善心法師 寛政一二(一八〇〇)・二・二三 河州石川郡佐備邑 道籏治兵衛 紀州海士郡田尻邑
真教法師 寛政一三(一八〇一)・二 紀州伊都郡妙寺村 池田武兵衛 河州錦部郡四釣樟村
真善法師 文化元(一八〇四)・二 泉州大鳥郡畑村 西本茂平・同嘉平 紀州伊都郡柏木村
智善法師 文化六(一八〇九)・二・一四 河内丹南郡平尾村 酢屋七兵衛 紀州那賀郡畑ケ村
快淳法師*5 文化一一(一八一四)・二・二〇 河州錦部郡甲田宮村 塚本八郎兵衛 紀州那賀郡高塚
海心法師 文政三(一八二〇)・二・二〇 河州丹南郡半田村 田中弥平次・森本利右衛門 河州丹南郡半田村
智光法師 文政四(一八二一)・二・一四 河州錦部郡新家村 内田忠兵衛 和州宇智郡岡村
眼朋法師 文政五(一八二二)・二・朔 河州丹南郡岩室村 中林作左衛門・辻惣右衛門 紀州那賀郡岡田村
法心法師 文政一一(一八二八)・二・二四 河州錦部郡小山田村 多田右市 和州宇智郡島野村
海眼法師 天保四(一八三三)・二・一七 河州錦部郡西代村 坪佐徳五郎 紀州有田郡中野邑
憲真法師 天保五(一八三四)・二・二三 河州錦部郡新家村 内田忠兵衛 紀州那賀郡安楽川上野村
法道法師 天保七(一八三六)・二・一七 河州錦部郡伏山村 芝本幸右衛門 (出身の記載なし)
勝順法師 天保七(一八三六)・二・一七 同国同郡同所 芝本幸右衛門
円心法師 嘉永六(一八五三)・二・一八 河州石川郡川野辺村 河辺清右衛門 同産(施主と同じの意か)
教道法師 安政五(一八五八)・二・二四 泉州泉郡我孫子豊中村 辻村源左衛門名 同産

 この資料は、本文で取りあげた太子町葉室の旧壺井家(現在渡辺家)蔵の『西国三十三度行人過去帳』(以下、過去帳)に、近世初期以降の満願行者を記す掛軸(以下軸装過去帳)から供養施主名と行者の出身地を加えて表化したものである。
*1 過去帳には慶長九年と寛永一四年に二人の祐清法師がみえるが、軸装過去帳に記載された祐清がそのどちらにあたるか、判別しかねる。
*2 順清法師については過去帳に記載がなく、したがって満行の年も明らかでないが、軸装過去帳では円海・正円の次、長順・円教(円鏡)・休存の前に記されているので、とりあえずこの位置に挿入しておく。
*3 軸装過去帳および供養塔では行者名は「円教」。
*4 軸装過去帳では行者名は「円性」。
*5 過去帳では、このあとに一人分の空欄がある。壺井家文書によれば、聖道という行者が満行して、文政元年二月に供養を行ったものの、供養の什物の引き渡しに関してトラブルを起こし、満行を抹消されたものらしい。
注)ここでは小嶋博巳編『西国巡礼三十三度行者の研究』(岩田書院)所収「葉室組行者過去帳」(小嶋氏作成)を加工掲載