次に当行者組織の存在形態を理解するうえで欠くことのできない問題の一つである、拠点寺院の宗派問題についてみておきたい。
前述の三組はともに、その活動拠点を近世国家による編成を受けた本末制度下の地方寺院に置いていた。そして同時に花山院家・御室仁和寺という中央の公家・大寺院を行者組織上の本所に持っていたのである。
ではこの両者の隙間はいかにして埋め得たのであろうか。その理由には以下の三点があげられよう。一点目は、葉室組の場合に明らかなように、本寺花蔵院が組織の包摂を容認し、むしろ積極的に推進していったこと、つまり公的本末関係にある本寺の認可があげられる。二点目は、文書の使い分けを行ったことがあげられよう。つまり対上級権力に提出する場合を典型例として「公的」側面では、本来の宗派秩序(本末関係)に則った文書様式を使用し、行者活動に関する側面でのみその支配形態による文書様式を使用したということである。三点目は行者が「身分」的に二面性を持ったということがあげられる。つまり社会的実態は本所から活動許可を得た「行者」でありながら、公的には彼はあくまでも拠点寺院たる村落寺院の僧籍を持った「寺僧」であった。
以上三点から、当組織の存在は宗派的にも問題にならず、このことが地域社会で存在意義を持ったこととともに、当組織が近世社会で存続できた二つ目の理由であると考えられる。
このように、この二点、つまり地域社会の問題のクリアーと宗派上の問題のクリアーこそが、当行者組織が近世中期以降の在地社会で存続し得た重要な要因であろう。逆に、これらをクリアーさえできれば、一面法外的存在と思われるようなものも存続できたのが、近世社会であったのである。