最後に、近世におけるこの行者組織の存在形態の特徴をより正確に理解するためにも、近代以降の展開を簡単にみておく。ただし、ここでも詳しく追えるのは葉室組についてである。
明治四年(一八七一)六月、葉室組の支配に一七世紀末以来二度目の大転換が生じた。それは、当組織の本所であった花山院家の支配からの撤退である。周知のように、明治政府はこの年の六月から八月にかけて、公家などの家職制度の全廃と各寺社が地方官の管轄下請に入るよう命令を出している(『法令全書』)。明治政府が花山院家の行者支配を、直接名指しで否定したとは考えられないが、このような情勢を察知してであろう、花山院家は壺井家の当主源左衛門に対して、「当今之時節柄(中略)当家之御称号御用ヒ無之候様・・・」と組織のトップに立つことから手を引いたのである。
さてこの後、昭和二〇年代まで続いた葉室組行者の支配はいかに行われていったのであろうか。
花山院家の撤退により、名実とともに組織の管理者となった壺井源左衛門は、領主の在地代官であったためもあってか、領主の要請で一度は上京する。すぐに帰郷を希望し許可されるが、彼の上京中に「村の寺院」たりえなかった仏眼寺が廃寺処分にあっていた。拠点を失った当行者組織は、一時活動停止を余儀なくされる。しかしすぐに壺井源左衛門は行政(堺県)と固定の信者である宿へ働きかけ、遅くとも明治一六年(一八八三)以前には組織の復興に成功している。その際にいくつかの勧進帖が作られ、それらにはさまざまな形で当行者組織の伝統が表現されているが、その中に公家花山院家の支配をうけていた事実は一言も触れられていない。このことからも察せられるように、以後の葉室組は花山法皇以来という伝承と信者(宿と満願供養の際の参加者)の信仰心のみを頼りに、壺井家を拠点に活動を続け(行者の掟書も壺井家が出している)、第二次世界大戦後に食糧目当ての行者志願者が増え、それに伴うトラブルが頻出したために、当時の壺井家当主がセタを引きあげてしまうまで、壺井家の支配下で活動を続けたのである。
このように、近代の当行者組織は、活動形態という面では近世と類似していたものの、その存在形態全体(特に支配形態)では全く質を異にしており、そういう意味からも、当行者の活動を一様にいわゆる民俗事例とみなすことは正鵠(せいこく)を得ていないのみならず、各時代におけるその性格を見誤る要因にもなるであろう。ここでは近世における存在形態の分析に限定したが、中世・近代におけるそれは改めて解明されねばならない問題である。