その内、史料的に比較的明らかな事柄が多い寺院について、次に、宗派別に順にして記述しておこう。
真言宗
龍泉寺(龍泉)
高野山の末寺である。牛頭山医王院と号し、聖徳太子作と伝える薬師如来を本尊とする。宝永元年(一七〇四)の「河州龍泉寺記」(近世Ⅶの二)によれば、推古天皇の時代、蘇我馬子が創建したと伝える。また、「元興寺伽藍縁起」(寧楽遺文)にも、馬子が当寺を石川の神名傍山に起し、禅行之院となしたとの記述があり、「日本書紀」の敏達天皇一三年の条の「石川の仏殿」は、この寺に相当すると考えられ、古代仏教史の上で重要な寺院である(古代編第一章参照)。現在所蔵する「龍泉寺縁起」の奥書は正徳五年(一七一五)一〇月一六日のもので、「右龍泉寺縁起者自古所伝来而、今新作之」と記される。これらによれば、その伽藍には金堂(本堂)・東塔・西塔・弘法堂を有し、塔頭は、梅之坊・東之坊・中之坊・吉祥院・西之坊・蔵之坊・高之坊・辻之坊・奥之坊・脇之坊・前之坊・谷之坊・北之坊・山之坊・小福院・満福院・西方院・文殊院・千手院・摩尼院・阿弥陀院など(三坊の名は不明)の二四の僧坊を持つ、本格的な寺院であった。
しかし、南北朝時代から戦国時代の戦乱に遭って荒廃していたものを、慶長一三年(一六〇八)一〇月一九日、片桐市正の検地奉行の際、灯明料として高三石の寺領を赦免され、ここに復興した。さらに寛文年間に入って、諸堂が再建され始め、宝永元年の頃には、ほぼ堂宇が整えられることとなった。もっとも、僧坊はその間には減少し、寛永年間には梅之坊良覚・中之坊了観・東之坊快円・吉祥院秀範・西之坊某の五坊となり、さらに、寛文年間から宝永年間には、三、四坊になってしまった。
元禄五年(一六九二)九月一七日、大坂番所寺社奉行へ提出した覚の控(『大阪府史蹟名勝天然記念物』第一冊所収)によれば、
覚
一 石川近江守殿御知行所河州石川郡龍泉寺者、真言宗古義無本寺
一 開基者聖徳太子与蘇我馬子大臣之建立、中興弘法大師御再興処也
一 除地
境内 竪六町 伽藍敷地 南北五十五間
横八町 東西五十間
此内に年貢地御座候
一 金堂 梁行三間 御拝有 瓦葺
桁行四間
本尊薬師如来 日光月光十二神将
一 弘法大師御影堂 梁行三間 御拝有 瓦葺
桁行四間
一 御供所 梁行三間 藁葺
桁行五間
一 龍池の中に嶋三ツ 一 吒天社 三尺五寸ニ柿葺
三社 三尺
一 弁才天社五尺 同断
四尺五寸
一 聖天社 三尺五寸ニ同断
三尺
一 鐘楼 壱丈四面 瓦葺
一 雨井戸 壱間四方 瓦葺
一 弘法大師御加持之阿伽井石の蓋有
一 鎮守牛頭天王社 八尺五寸ニ 柿葺
七尺五寸
脇に末社春日之宮 三尺四方 柿葺
右牛頭天王は当山之鎮守並龍泉村甘南備村両村之氏神にて御座候、神主は甘南備村之宮衆廻り持、禰宜は龍泉村宮座之頭廻り持、社僧は寺中一臈役にて、神子は上之太子に有之
一 東塔西塔礎跡有、西塔之跡に宝筐印塔有
蘇我馬子大臣之堂跡、役行者堂跡、降三世堂跡、八王子之森有
一 中門 梁行三間 一丈余の仁王 弘法大師御作 瓦葺
桁行五間
坊中之事
一 梅之坊 梁行四間 敷地 廿間四方 藁葺 良覚
桁行五間 除地之内
一 西之坊 梁行三間余 敷地 廿間四方 藁葺 秀雄
桁行六間 除地
一 脇之坊 上畑二畝廿三歩
この寺は、薬師如来を本尊とする真言宗古義派の無本寺の寺院であるが、境内には毘沙門天を安置し、さらに、境内社として咸口(かんこ)神社(牛頭天王(ごづてんのう))を鎮守とし、宮座を有し社僧が係わると言う、いわば典型的な神仏習合の形態を持つものであった。
また、寛永二年の「乍恐口上書」(同上)によれば、本寺はなく、寺中の五つの坊が相談して庶務を果たし、その年の年預坊を設け、月行司、諸伽藍寺役なども戒臘次第によって勤めていた。その後は高野山龍光院末に属することとなった。
寛文九年の提出寺記の写(同上)も、その間の状況を補って述べているので、長文にわたるが掲載しておこう。
石川若狭守殿領分
河州石川郡古義真言宗無本寺
龍泉寺
(中略)
一 弘法大師堂屋敷有之、当時造仕候事
一 役行者堂屋敷有之
一 蘇我大臣屋敷有之
一 坊数往古は廿三坊、内十八坊は破壊、残る五坊于今在之、右之内十二坊は御免許地残り、十一坊は御年貢地
一 龍泉寺境内竪六町、横八町余御座候
一 山林師法印検地之時御赦免、但し次之山奉行来守(くるす)助右衛門証文有之
一 灯明料三石御赦免龍泉村に在之
片桐市正殿御検地奉行田村平兵衛、牧治右衛門御検地之帳面之内三石引灯明料与御帳に書付被成候、検地年号慶長十三年十月十九日、牧治右衛門、田村平兵衛
一 年中寺役之事正月修正会七ケ日、毎月廿一日御影供毎朝薬師法一座毎朝三天合行法一座、毎朝牛頭天王本地一座相勤候事
一 伽藍修理之用木は中門之内、赦免之山林伐申候、下刈は坊中江薪に伐申候
一 寺務本寺無御座候、但観心寺之従槇本院受戒法流伝授仕候御事
河内国石川郡之内龍泉寺坊中
寛文九年己酉四月十三日 中の坊 快言
東の坊 秀仙
吉祥院 良言
西の坊 快養
現在、寺内には、国の重要文化財の指定を受けた仁王門(鎌倉期の建立)・木造の金剛力士立像(二体)、大阪府の文化財の指定を受けた木造の聖徳太子立像がある。
明王寺(彼方)
真言宗智積院末である。寺伝によれば、弘法大師が弘仁一二年(八二一)に創建したものである。南北朝時代に龍泉寺とともに戦火に遭って荒廃してしまったようである。ただ本尊の不動明王は、寛治八年(一〇九四)三月二六日の作と伝え、地元の楠木正成も崇信したと言われる。それ故、江戸時代に入っても庶民の信仰が厚く、『河内名所図会』にも掲載され、滝谷不動として知られていた。天明八年(一七八八)の梵鐘を蔵する。また、所蔵する「五大明王尊図」は、明治初年に廃寺となった蓮華心寺(彼方、もと真言宗)に伝えられたものと言う。
浄土真宗
興正寺掛所(富田林)
西本願寺の興正寺門跡の兼帯所で、富田林御坊と呼ばれる。弘治元年(一五五五)、興正寺一四世の証秀(永禄一一年二月一五日寂)が、河内国磯長の叡福寺にある聖徳太子廟に参詣した際、当地域の教化に当り、永禄五年(一五六二)に本地を開発し、一宇を創建した(中世編第五章第二節参照)。江戸時代の『河内名所図会』には、「上人は隣村毛人谷に於て寂す、今其の地に塚あり、門徒祖師山と称す」とある。
明治に入って、興正寺は、西本願寺から分離独立し、真宗興正派を形成し、その本山となったので、一三年五月二四日、興正寺別院となった。
光盛寺(新堂)
西本願寺の末寺である。寺伝によれば、貞永元年(一二三二)に尊空が創建したと言う。本尊の阿弥陀如来は本願寺四世の善如による下付と言う。しかし、戦国時代には、戦火により本堂などが焼け、史料も失なわれてしまった。その後、近世に入って、寛永八年(一六三一)一〇月一四日に寺号を公称したと言うから、本願寺の寺院としては古い歴史を有していることが分かる。現在、画像二幅が所蔵されており、剥落が激しくて充分には解読ができないが、たとえば、その一つの裏書には、
本願寺釈良如(花押)
上宮太子御影 寛永十七朞(ねん)庚辰二月十五日
河内国石川郡新[ ]
願主釈[ ]
とある。これは同年月の寛永一七年に西本願寺世の良如が下付した太子・七高僧画像の裏書であるとしてよい。
その後、太子・七高僧画像とともに真宗寺院では什物としては必須な親鸞画像は、宝暦八年(一七五八)二月一二日、本願寺十七世の法如が願主の祐悦に下付したものである。
また、元禄一五年(一七〇二)、祐智の代に本堂と庫裡を再建し、貞享二年(一六八五)には鐘倭と梵鐘、寛政四年(一七九二)には山門を再建した。なお本堂ひさしに掛けられている小釣鐘には、
(南面)「河州石川郡新堂村 光盛寺什物」
(西面)「宝暦七丁丑年七月日 再興願主大阪河内屋権兵衛」
(東面)「施主大坂西高津町住 佛具屋喜兵衛(花押)」
と、刻字されている。
明尊寺(喜志)
西本願寺の末寺で、文永一〇年(一二七三)八月、了智坊の開創と言い、文明四年(一四七二)七月、寺号を公称したと言う。同寺に蔵する本来の本尊である阿弥陀如来絵像の「方便法身尊像」には、
大谷本願寺釈蓮如(花押)
文□□(明十)九年丁未七月十一日
河内国石川郡
方便法身尊形 □子庄
願主釈□□
との蓮如の裏書がある。剥落が激しいが、文明一九年に蓮如が願主の釈了浄に下付したものと考えてよい。この蓮如は本願寺の八世で、言うまでもなく巨大教団を創り上げた人物である。また、六字名号も所蔵されており、裏書などは残されていないものの、蓮如筆と伝えるにふさわしい筆跡のもので、これらはともに、南河内地域における蓮如の教線の伸張を物語るものとして重要であると言える。慶長一〇年三月一一日には、十二世の准如が明尊寺の本尊の木仏に裏書をしている。それには、
釈准如
慶長十年乙巳三月十一日
願主明尊寺釈頓恵
右之木仏者、河内国石川郡岐子明尊寺、依望之令免者也
とあって、真宗寺院としては、近世以前から寺号を有した古い寺院と考えられるものである。
また、「聖徳太子孝養画像」の裏書や真宗に伝来した七人の高僧を描いたいわゆる「七高僧像」の裏書には、ともに「寛永十七年良如下付 河内国石川郡喜志之庄明尊寺常住物也 願主釈浄恵」とある。
専念寺(西板持)
西本願寺の末寺である。宝永七年(一七一〇)三月九日、西本願寺一四世の寂如から本尊を下付され、長福寺の号を授与された。その後、享保元年(一七一六)一〇月七日に現在の専念寺と改称している。享保二〇年からの「過去帳」があり、興味深いものである。安永四年(一七七五)一〇月九日には、一七世の法如から「聖徳太子像」を下付されている。
専光寺(新堂)
西本願寺の興正寺末である。永正七年(一五一〇)二月一五日に寺号を公称したと言う。享保一二年(一七二七)の石燈籠や、安政二年(一八五五)からの「過去帳」がある。
教蓮寺(新堂)
西本願寺の興正寺末である。永正七年(一五一〇)一一月二八日に寺号を公称したと言う。文禄二年(一五九三)からの「過去帳」があり、興味深いものである。元禄四年(一六九一)の太鼓も所蔵され、境内には、元文四年(一七三九)や享和三年(一八〇三)と刻銘されている常夜燈がある。
光円寺(新家)
東本願寺の末寺である。この寺に残されている「棟札」の表に、
天保三壬年三月十五日 道場開基元和四戊午年 東本願寺直末寺 光円寺
河州石川郡新家村看坊義秀
庄屋彦左衛門
年寄次郎兵衛
惣門徒中
とあり、またその裏には、
棟梁 河州同郡新堂村 久保 太右衛門
と記され、 また、享保四年(一七一九)、真如の下付になる「親鸞画像裏書」に、
本願寺真如 享保四己辛年 河州石川郡喜志新家村 惣道場広円寺常什
とあるように、当寺は、元和四年(一六一八)に新家村の惣道場として開創されたものと考えられる。「惣道場」とは、いわば村が建立したもので、惣としての村の所有になるもので、その住職は「看坊」と呼ばれた。それに対して、ある僧侶が個人的に建立した場合を、「自庵」と称していた。真如は東本願寺の一七世で、大谷祖廟の改修、親鸞四百回忌の執行、学寮(現在の大谷大学)の講師職の設置などを行った。
金光寺(喜志)
東本願寺の末寺である。同寺に蔵する親鸞画像の裏書きには、
大谷本願寺前大僧正琢如
親鸞聖人御影 □(寛)文十年庚戌林鐘中□□
河州石川郡喜志荘川面村
惣道場金光寺常住物也
とある。寛文一〇年(一六七〇)六月、東本願寺一四世の琢如から川面村の「惣道場」である金光寺に下付されたことが明らかで、近世初期から真宗寺院として確立していたと言えよう。また、琢如は東本願寺にあっては、大谷祖廟(現在の東大谷墓地)の建設、学寮の創設など、大きな実績を残した法主である。
融通念仏宗
浄谷寺(富田林)
大念仏寺の末寺である。寺伝によれば、創建は弘安九年(一二八六)、済戒真証上人が毛人谷村に創建し、半偈山三仏院浄谷寺と呼んでいた。天正二年(一五七四)、教道の代に当所に移転し、当時は真言宗仁和寺の末寺であった。近世に入って、寛文六年(一六六六)に再興され、元禄年間に融通念仏宗に転じ、さらに、天保年間に一七世の恵湛が再建したものである(「南河内郡寺院明細帳」大阪府企画部教育課蔵)。またその間を補足する史料としては、延宝五年(一六七七)の「大念仏寺四十五代記録并末寺帳」に、
河州石川郡毛人谷村
浄谷寺 代々看坊秀山四年以前甲寅入院、元真言宗大念仏宗帰依、此寺従往古在之、開基年暦不分明
とみえる記事や、当寺に所蔵する「梵鐘」に、
宝暦五乙亥三月吉日 浄谷寺 河州石川郡富田林村 月山上人代
との刻銘などがある。
また、地蔵堂に安置する石地蔵は、明治後に境内に移転されたもので、『河内志』に、「有石仏像、鐫曰応長元年」とあるもので、その刻銘に「没故小比丘尼報恩覚霊位、応長元年歳辛亥六月廿七日造立、没故済戒真澄覚霊位」とあり、現在、大阪府の文化財指定を受けている。
良法寺(佐備)
大念仏寺の末寺である。もと真言宗であったが、元禄年間に本山の大通の代に融通念仏宗に転じ、開基を浄蓮上人とし、明治四年(一八七一)まで浄蓮寺と称し(延宝の末寺帳では常蓮寺)、中河内郡若江村にあった。しかし、廃仏毀釈によって廃寺となった。明治六年になって、若江岩田の良法寺を今の佐備の地に移転したものである(一説によれば、明治二八年三月)。
同寺の「半鐘」には、「享保五年正月吉日 道畑半右衛門・半助施主」の刻銘がある。
遍照寺(甘南備)
大念仏寺の西音寺末である。もと、真言宗であったと伝える。恵順が天徳四年(九六〇)四月?に再興し、その後、永く荒廃していたが、江戸時代に入って、復興したようである。境内には、貞享二年(一六八五)の五輪塔がある。また、正徳年間からの「過去帳」を所蔵する。さらに、享和元年(一八〇一)に再興された。
長福寺(廿山)
大念仏寺の末寺である。創建は不明であるが、もと真言宗であったと伝え、南北朝時代の地蔵尊がある。また、元中八年(一三九一)からの「過去帳」も伝来している。
「大念仏寺四十五代記録并末寺帳」(融通念仏宗教学研究所編『融通念仏宗年表』所収)によれば、
河州錦部郡廿山村
長福寺 代々看坊順正四年以前甲寅入院、元真言宗、大念仏宗帰依、此寺従往古在之、開基年暦不分明
とあるように、代々は看坊であって、延宝二年(一六七四)に順正が入寺している。それ以後は、恵賢(真覚)・任周・秀音・孝演・天海・霊珊・智周・寛明・義縁・義嶺・義圭・義直・義嶺・義龍と相続している。文化八年(一八一一)二月一〇日には、医薬門の新建などの普請を願い出ている。因みに、この廿山村からは、「大念仏寺四十五代記録并末寺帳」に、
第四十四世隆明崇観上人 生国者河州錦部郡廿山村人、従寛文九己酉、至延宝三乙卯、七年為上人、同九月十三日七十八歳而寂
とあるように、融通念仏宗の四四世隆明崇観が出ている。
黄檗宗
慈眼寺(南別井)
万福寺(京都府宇治市)の末寺である。楠木氏一門の帰依が厚く、寺宝に楠木正成自筆と伝える『軍檀目鏡』があり、小田原藩主の大久保忠真(当時大坂城代)が文化一一年(一八一四)五月に書いた次のような讃文が添えられている(『富田林市誌』、原漢文)。
河州石川郡南別井村に尼刹有り、慈眼寺という、什器に故河摂泉三州守贈正三位近衛中将楠公(正成)筆録真蹟の一冊有り、装釘<ママ>は小葉子にして外簽無し、また書名無し、跋に軍檀目鏡云々建武二年八月日正成と若干の字有り、また花押有り、筆力遒絶(しゆうぜつ)、奕々(えきえき)として神有り、公の用兵端倪せずといえども、公の威武もって想見すべし、嗚呼距(へだ)つるに今四百八十年、その人則ち無く、その書則ち完好として恙無(つつがな)し、尤も喜ぶべきかな、余(よ)時すでに大坂処守たり、村は即ち今小田原に隷す、ゆえにもって親しく細読に寓するを得たり、この冊子の原蔵子匣をもちい、しかして緘滕(かんとう)を摂らず、何をもってか守備をなさんや、廼(すなわ)ち、另(別)に套函を造り、因って扃鐍(けいけつ)してこれを帰(返)す、曰くもってこれを善蔵すべし、その人(仁)にあらざるに公(おおやけ)にするを欲さずと、盖(けだ)し公の志なりママ>
文化十一年歳次甲戌夏五月
小田原城主従四位下大久保加賀守藤原忠真識
また、本堂に置かれている鏧子(きんす)の周囲には、
天保五午年六月吉日
河州石川郡南別井村慈眼寺什物
当寺八世貞寿置之
世話人大ケ塚村梅川新右衛門
と刻まれている。
また当寺には、空海の作と伝えられる霊井と宝塔があり、霊井は『河内名所図会』にも「大師の井」と記述され、近世において、民衆により信仰されていたことが分かる。
臨済宗
楠妣庵観音寺(甘南備)
寺号が示すように、楠木正成の夫人が一族の菩提を弔うため、正平三年(一三四八)に草庵(観音堂)を建立したと伝える。近世には、中世以来の由縁を伝える当地の名家松尾家(当主は代々、常陸下館藩石川氏の河州飛地領の大庄屋を勤め、のち士分に取り立てられて、当藩白木陣屋の在地代官となったと伝えられる。近代以降大阪方面へ移住したため、現在この地には家屋敷の跡地を除いては何も残されていないという)が代々守ってきたと伝える。しかし、明治六年(一八七三)には、廃仏毀釈の影響により廃寺となった。その後、大正一一年(一九二二)になって再興されたものである。
境内には現在、本堂のほかに楠木正成夫人の墓と伝えられる五輪塔があり、また大正六年に、当時の帝室技術員伊東忠太によって設計・再現された草庵と観音堂などがある。
なお一説によれば、当寺は元和元年(一六一五)三月の創建といい、また昭和三年(一九二八)に京都府南桑田郡より移転したともいう。