神社の概要

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その内、近世における史料の上で、比較的に明らかな事柄が多い神社について、次に記述しておこう。

美具久留御魂神社(喜志)

 美具久留御魂神社は、大国宮・和爾宮・佐美陀礼宮・綾池速備宮・折方宮・下折方宮・下水分社(赤坂村の水分建水分神社を上水分と呼ぶに依る)・中水分社(高安村の恩致神社を下水分と呼ぶに依る)・西条宮・羽曳宮・香折岡宮・旭岡宮・金毘羅宮・支子宮・支子荒魂宮・伎子宮など様々な呼称で呼ばれていた。

 古代のことについては、『富田林市史』第一巻古代編第三章第二節に詳しいが、室町時代の祭礼の様子が、「下水分社頭役差状」(中世七〇)によって、かなり判明している。しかし、やはり戦国争乱の渦中に巻き込まれてしまったようである。元亀三年(一五七二)八月、越前守・越中守によって、次のような禁制が出されている(中世七八)。

   禁制     下水分神境

一、諸公事免許之事  付方六町事

一、徳政事

一、陣取矢銭兵粮米事 付山林竹木事

 右条々、堅令停止訖。若於違乱輩者、速可被処厳科者也、仍下知、如件

  元亀三年八月 日               越前守(花押)

                         越中守(花押)

 このような禁制は、この以後も幾度か出されたが、兵火に遭遇してしまったようで、万治三年(一六六〇)の「河内国下水分大明神記録」(美具久留御魂神社文書)によれば、正東山神宮寺として、社僧には下之坊・南嶋坊・加福院・金福院・自幸院・福本坊・西徳院・福生院・喜蔵院・性徳院・善福院・新太夫がいた。中でも、下之坊は本願人として、その再興の中心となった。その頃は紀州根来寺の末として隆盛していたが、天正年間、信長の根来寺攻めがあって以後、寺領・神領は没収されて衰退した、とされる。

 しかし、天正一二年(一五八四)六月八日、豊臣秀吉は祈祷料として「田地壱反」を寄進し(中世九三)、新しい権力のもとで近世の神社としての歩みをはじめて行くようになる。この間のことについて、文化三年(一八〇六)三月五日の青谷播磨守忠賀の「美具久留御魂神社略縁起書」は、

  元亀年中、右大臣織田信長社領悉皆没収し、寺坊を焚き、当社ノ宝物神代ノ巻物縁起書等、凡弐百数十品を一時社前ニ焼失セリ、(下略)

其後、天正拾弐年六月八日、従一位関白太政大臣豊臣太閤秀吉公より田地壱反五畝歩、且遊佐河内守・柴田勝家・片桐且元、其他ノ諸侯ヨリ田地して、四反四畝歩を御寄附あり、以降、徳川三代将軍家光公御寄附を以大修繕を行、以降、当文化三年迄保存し来リ、蓋し創立より千九百四年、神威益々盛ニ、実ニ古来ゟ尊崇すべき有名成式内古社ニ□□

と、述べている。秀吉の時には、さらに社殿が修復され、以後、秀頼や徳川家光も修繕を加えた。

 また、明治元年(一八六八)一一月の「神社取調書上帳」(美具久留御魂神社文書)には、

一、建水分神社        除地

    境内  東西百八拾四間   内敷地  百間

        南北 九拾間壱尺       拾七間弐尺六寸

    外宮山 東西六町四拾七間  御年貢地 境内続

        南北八町三間

    社   梁行壱間九寸

        桁行三間

         但し五尺三寸

と記されて、境内地の様子が分かる。

 明治四年には郷社に列され、同四〇年一月(一説に四一年)には神饌幣帛供進社に指定された。さらに、大正二年(一九一三)六月二四日には府社に昇格された。こうしたことから、当社は南河内郡の総社として、一の宮、二の宮とも呼ばれた。軍の神と信仰され、農工商の守護神、結縁の神としても崇拝された。喜志・新堂・富田林・毛人谷・新家・山中田・中野の七カ村の産土神でもあった。

 境内神社一〇社の中、明治四〇年一〇月、西浦の村社の郡天神社、尺度の村社の利雁神社、大伴の村社の大伴神社を合祀した。

佐備神社(佐備)

 延喜式内社である(古代編第三章第二節参照)。天安二年(八五八)、文徳天皇の創建と伝える(『大阪府全志』)。『河内名所図会』に、文安元年(一四四四)一二月二三日、「河内国石川郡東条佐備郷高園宮重修」と記載され、この頃に復興していたことが知られる。しかし、その後の戦国時代の状況については定かではなかったが、近世に入って、元禄時代に修復されている。さらに、明治三年(一八七〇)二月にも修復される。佐備村の産土神として信仰され、明治五年には、村社に列され、大正元年(一九一二)一一月、神饌幣帛料供進社に指定された。

咸口神社(龍泉)

 延喜式内社である(古代編第三章第二節参照)。『河内名所図会』にも記載され、江戸時代には河内地域の名所の一つであったことが分る。当時は、龍泉寺の鎮守であったが、明治維新後の神仏分離によって、龍泉寺から分離した。明治五年(一八七二)、村社に列され、さらに、同四二年一二月二日、延喜式内社の甘南備の咸口佐備神社を合祀し、大正四年(一九一五)九月には神饌幣帛料供進社に指定された。

写真251 佐備神社

錦織神社(甲田)

 もと、水郡(にごり)神社と称した。正平一五年(一三六〇)一二月の再建と言う。廿山・加太・新家・甲田の産土神である。「河内国錦部郡水郡宮之次第」(中世九六)によれば、正平一八年一二月、義円坊を勧進聖とし、神主兼惣長者三善貞行、荒神供請僧滝覚房聖瑜などによって造営された。御真体は薬師如来・牛頭天王とし、脇には阿弥陀如来・天照太神、十一面観音・天満宮を安置し、神仏が習合されていた。

 明治五年(一八七二)には郷社となり、同四〇年一月には神饌幣帛料供進社に指定された。同年七月二日(一説に五月七日)、現在の社名の錦織神社となる。社殿は、同四五年二月八日特別保護建造物、昭和八年(一九三三)には国宝(旧国宝)に指定された。その後、現行の文化財保護法(昭和二五年制定)のもとで、重要文化財に指定され、現在にいたる。旧記は新家の内田次郎氏に蔵する。