近世後期になり、農村社会生活の変動と領主財政の窮迫化にともない、しばしば、倹約令が発布された。一八世紀後半の明和安永期から、寛政期、さらに化政期を経て天保期へと続き、集中的に出されている。それは、特定村落の経済的困窮や疲弊などから来る一村限りのものと、領主の政策の一環として領域全般にわたるものとがある。後者の事例では、近隣の丹南藩は、文政五年(一八二二)五月、莫大な借財をかかえたうえに、米価が安いため収入が減じ、諸経費節減の方針を定め、翌年から五カ年間、倹約令を実施したのである(『美原町史』四)。倹約令の方針の中味は、基本的には農民生活が華美に走り、身分不相応な美麗をすることから農民が困窮するという観点にたち、生活の質素倹約を守り、冠婚葬祭での冗費の節約、村財政、労働、飲食や服装などにつき遵守すべき事項を詳細に規定している。一村限りの倹約令は、領主の要請や農村の上層部の意向を反映して、村落共同体の秩序維持から生じる場合も多い。市域の村々を中心にその事例をあげてみよう。甲田村は、近世後期、伊勢神戸藩の領地であったが、はやくも、延享二年(一七四五)一〇月、村役人と出作の富田林村高持惣代らの連印で、上書倹約仕用目録が出された。郷村諸入用の倹約で領主から仰せ付けられ、申合書のあらましを書き記したものであるという。幕府や領主からの休泊の接待、村役人会合の飲食費の規定、諸事買物はなるだけ下値のものをなどから始まり、宗旨改諸入用や勧進奉賀などの高掛りや庄屋の一本化の決定などに及んでいる。しかも「定」として百姓と相談し庄屋・年寄・歩行などの給米の取り極めや、神戸役所、大坂・堺役所などへの出張費の節減などに及んでいる(近世Ⅲの五)。
彼方村では、明和六年(一七六九)村方の百姓が困窮しているので、次のような取極書を定め村方の惣百姓から、膳所藩・狭山藩双方の村役人に申し出ている。その内容は大坂町奉行や堺奉行の巡回宿泊と休息のときの諸経費や、大念仏宗での廻在のときの年行司への補助、大坂・堺両奉行所への出張費の規定など、村落共同体からの公用に対する補助支出の制限などで、郷村方の諸経費の拡大を抑止し困窮に対処しようとしている(彼方中野家文書「村方倹約相定之㕝」)
安永二年(一七七三)には錦郡村(甲斐庄氏領分)において、利平以下九名の百姓が組頭源左衛門・彦三郎の両人に対し定書の厳守を申し合わせ、覚書を提出している。村方で諸経費がますます増加し、これに対応して、村方の借用銀もふえ返済の機もなく、万端にわたり倹約したい。領主へ願い許されたというのであった。それは村方入用を節減のため、立会支配割方銀の配分のとき弁当を持参し、かわりに弁当料を渡す、月一回参会日を設定し、村方からの願書など万事につき当日にその調査をしたり、池川諸事内見分の日限を当日に決定する。役人付添書や下役への弁当料米穀を一人一升と定める。川方奉行休泊のとき年行司が出席し、賄方の明細をきめるなどといった村方公用での接待や、村方会合のときの弁当持参などを申し定めている。ほかに婚礼や結納などの村方への披露・あいさつ料などを取りきめている(錦郡大松家文書「村方倹約令」)。喜志村川面株においては、天保四年(一八三三)五月、勘兵衛ほか六八人の百姓が、村方困窮し年貢上納が困難であるというので、向こう一〇カ年間村内で諸事倹約の励行を申し合わせ、一同連印している。年間の毎月の村方行事や儀礼などの簡略化と、近隣同士の配り物の廃止、婚礼・年忌法事・葬儀など饗応の質素化の申し合わせ、勧化・興行などへの寄付の中止と他村との共催の禁止といった内容をもつものであった。総じて村方共同体の諸行事や家を中心とする親類一同との交際など、人々の集会共同飲食等々の節減・簡素化の方向を強く打ち出し、冗費の支出制限をねらったものといえる(喜志土井家文書「村方倹約目録記」)