化政期の賃銀統制

996 ~ 998

幕府はすでに寛政二年二月、諸色値段が高いのでその引き下げを全国に命じ、各地において物価の実態が調査された(『御触書天保集成』上)。一八世紀後半は大坂市場を中心として廻米組織の完成もあり、米価は豊凶による差異もありながら比較的に安定していた。大坂の年々の在庫米量は増加し、享保・元文期の一〇〇万俵以下から、延享期以降は一五〇万俵以上に、さらに化政期には二〇〇万俵以上となった。化政期にいたるまでの毎年の増加が、米価の低下・安定に作用したと考えられ、とくに、化政期には凶作であっても決定的な高値とならず、全体として米価は低水準のままで経過したのである(山崎隆三『近世物価史研究』)。

 すでに文化一〇年(一八一三)錦部郡で「奉公人定書」が発せられ、近世奉公人の給銀が年々上昇するので、郡内の村々が参集の上で男女奉公人の給銀を決定し、遵守せよというのであった。奉公人の持つ技術や能力により男女ともにその段階を設け給銀を制限すると同時に、奉公人の衣服・履物類への統制、奉公人の出替日、休暇などを取り極め各村落ともに必ず厳守させようとするものである(『河内長野市史』六)。文政二年(一八一九)一一月、錦部郡では郡中一同で相談の上、米価安値で諸物価が高いので米の値段に準じ、奉公人の給銀および諸物価の引下げを命じている。奉公人給銀を一~一割半引下げ、村役人から奉公人の給銀を決定し、勝手な増給を禁じ、口入料や過料の額を決定するなどを取定めた。ほかに日雇賃や農作業の賃銀、畳屋・鍛冶屋・紺屋の賃銭は一割半の値下げ、大工・木挽き・家根屋・樽屋・左官・黒鍬などの職人賃銀を定め、炭・柴・薪などの物価の一割値下げを命じている。これには錦部郡の支配領主ごとに、村からの惣代がえらばれ連印して取締ることを述べている(近世Ⅲの一二)。また、石川郡でも同様に、米値段下値の処、諸物価の値段が高いので、米値段に準じて引き下げ、一村限りではなく、郡中一統相談して値下げを申し合わせ、毛人谷村以下郡内五〇カ所の村役人が連印している。石川郡の場合はその対象が、奉公人と各種職人の給銀であるほか、錦部郡の場合と違って、対象が綿打賃・綿繰糸車桿替賃・米搗賃・牛馬駄賃・青物問屋口銭・牛中買口銭のような各種の手間賃・口銭などにまで拡大している。諸物価についても、酒・酢・油にはじまり、古手類・呉服物小間物類・魚鳥類干物類など、さらに餅・麺類・豆腐・こんにゃく・醤油・田葉粉・蝋燭・菓子類・砂糖類・竹細工木細工指物類・瀬戸物類・諸紙類・草履・わらじ・下駄などや瓦・干鰯・油粕など生活用品の万般にまで広く及んでいる(近世Ⅲの一一)。こうして土地をもたない職人・日雇層の賃銀を抑制して、地主富農層の経営の維持をはかったものといえる。倹約令と賃金統制令とは合体してより強固な統一取締令となり、天保改革に際して、諸事倹約・奢侈禁止および給銀・物価統制令として、天保改革の核心の法令となってゆく。