天保期の救恤

998 ~ 1000

天保期は、天災異変、凶作飢饉の時代でもあった。天保四年(一八三三)は全国的には低温多雨で奥羽・関東は大風雨洪水にみまわれ、大坂では八月、数年間石あたり銀六〇~八〇匁であった米価が一〇〇匁を越えた。五年になっても状況はかわらず、六月には米価が一四〇匁を超したが、秋には豊作が伝えられ米価も下落した。六年は平年作が伝えられたが、七年に入り新春からの荒天で五月には淀川も洪水を起こし、米価も一〇〇匁を超えた。七・八月は全国的な冷害と洪水、大坂では青物野菜類もなく市民は非常な窮状に達した。

 このころ、富田林村の酒造家で豪商でもあった仲村徳兵衛は、「天保七申年米価高直諸事控」のなかで、南河内を中心とした状況につき、左のごとく記している。

 天保七申年閏四月廿六日大雨狭山池西堤大ニ切、丈六新田ゟ野田辺多治井村全部右近辺大洪水ニ而、人家田畑全部之荒、其後土用前ゟ土用中日々雨天ニ御座候、天気と申日一日も無之位、土用中綿入を着用しても宜敷位大不時気ニ候得共、稲作左程ニも凶作とも見不申故、如何之事成と安しんニ存居御座候処、九月十四日比此度者五十六匁位、夫より追々高直ニ而十一月比ニ者百四拾匁位仕(中略)右大変(大塩事件をさす)之後世上一統人気悪敷相成、諸大名衆御手元米ヲ囲被成候故カ、酉年三月四月ニ者弐百廿匁ゟ弐百三拾匁位迄も相成、京都ゟ大坂へ米買ニ参リ候もの召捕、米買戻し候事不相成と申事ニ而、大坂八軒家ニ而買参リ候者、壱人別改有之候と申事、京都ゟ者一日分飯米夫ゟ米屋ニも売不申よし、扨も扨も京都之人難渋致よし承候、酉(天保八)年も同土用比雨天続ニ而不作、奥州出羽辺ハ大凶作ニ而(中略)御(五)畿内ハ格別之大凶作と申事ハ無之御座候、奥州之凶作ハ何分大多候、以後迚も土用中雨天ニ候得ハ米穀高直と心得可申候、(中略)当方ハ申九月十四日比ゟ買気ニ相成候故、大和ニ而者百石も買置候而、直段百十四匁ゟ百五十匁迄ニ而買入申候、翌酉年夏弐百五拾匁仕之時も、大和米ヲ少し宛取ニ遣し夫ニ而施行いたし候故、外家とハ違、(下略)

といささか長い引用であるが、南河内地域の状勢を記し、さらに仲村家では施行には大和米を使用したと述べられている。

写真253 天保7年 「米価高値諸事控」 (仲村家文書)

 毛人谷村への救恤は「米価高値ニ付仲村徳兵衛殿・杉山長右衛門殿両人ゟ施行銭割賦渡帳」によると、富田林村の仲村・杉山両家により行われている(富田林仲村家文書)。天保七年(一八三六)一二月、人別銭として一〇〇文宛とし、一人住居のものは銭二〇〇文支給した。施行請印を押した家数は四一軒、人数は一五五人であった。この費用は一五貫五〇〇文を必要とした。ほかに一人住まいの六人に二〇〇文ずつ給し、別に五人に五〇〇文を与え、施行した総人数は一六六人、経費は一七貫二〇〇文となった。仲村・杉山両家から合計して、銭二〇貫文を預かっていたので、差し引きして銭二貫八〇〇文を相戻したのであった。

 北大伴村は天保期では南株・北株両方より成り立っていた。天保七~八年にかけ凶作飢饉の結果、村内で飢人数が男女あわせて三六三人に及び、惣人数四七〇人中約七八%に達した。その内訳は、南株では、男一二九人、女一二五人計二五四人、北株では男五四人、女五五人計一〇九人で、双方で合計三六三人であったが、男女とも三歳以下は除外して、二〇人を差し引いて結局三四三人となった。他方、飢夫食拝借銀として、銀一貫三七三匁が下付されたが、そのうち二〇匁六分は入用経費として差し引くと正味一貫三五二匁四分が残額である。これを三四三人に割り当てると、一人分として約三匁九分余となる。結局、南株分二四一人で九五〇匁二分二厘六毛余、北株分は一〇二人で四〇二匁一分七厘七毛で、合算して、拝借銀の金額に相当するという計画であった。同年五月に飢夫食銀が下付された。南株では五人組の組頭が実際に取り締まって組ごとに配分したが、貸付の惣人数は二〇四人で少なく、貸付銀の総額は約八〇三匁余で、雑費その他を入れ八二七匁二分であった。また北株の方は、具体的な方法は明らかではないが、約三四〇匁が小前貸付分で、これに残額は六二匁一分七厘であったが、残額は雑費と、小前難渋者に貸付でなく給付銀として、五〇匁二分七厘を与えている。両株とも来る九年から、向う五カ年間にわたり無利息で返済することで落着したらしい。返済が滞納したとき五人組がかわって弁済すると申し入れているのである(北大伴三嶋家文書「飢夫食御拝借銀貸渡帳」)