天保改革の進行と市域

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天保一二年(一八四一)閏正月に、天明七年(一七八七)以来約半世紀間のながきにわたり将軍として、さらに大御所として、幕府の最高権力者として君臨してきた徳川家斉が亡くなり、将軍家慶の実質的な治政が開始された。家斉の死により政権交代が行われ、腐敗堕落した旧政治勢力を一掃して、同年五月から政治改革としての天保改革が展開する。

 天保改革は江戸を中心とした三都の住民に対し、社会生活全般にわたって詳細な取締りを実施したことは、いまさら、説くまでもないところである。倹約令を出しぜいたくな品や華美な衣服を禁じ、高価な菓子、料理の禁止、芝居小屋の場末への移転などの内容をもった、きびしい風俗取締令がその内容としてあげられる。また物価の引き下げを命じ、職人・奉公人の賃銀統制に及んでいる。大坂三郷市中に対しても江戸で出された倹約令は、衣食住のすべてにわたり、風俗の取締りは、子供の玩具などまで干渉するという細かさであった。当時、京都代官小堀数馬の支配に属した石川郡板持村では、天保一三年四月の年記のある「御触書御達之写 質素倹約并諸商売御教示書 大坂三郷町之写」と題する簿冊がある(東板持石田家文書)。寅三月(天保一三)に大坂両町奉行に達せられた江戸表からの触書を収めている。江戸表で出された触書は江戸市中だけでなく、諸国共同のことで心得違いのないよう厳守し、今後は株札・問屋仲間の名称を唱えることの禁止を述べているほかに、同年三月から四月にわたり、つぎつぎと出された触書を写し取っている。問屋・仲間の名称の禁止に続いて、諸商売、素人直売買の許可、冥加金上納の不要などにおよびさらに、華美な衣類の着用厳禁に始まり、頭髪の餝以下身の廻り諸道具、人形類やはま弓・五月餝幟や小間物類などを含め一四の項目にわたり使用禁止を述べている。質素倹約厳守のため、ぜいたく品の使用禁止を重ねて強調している。そして、唐船を通じての輸入薬種・荒物類などの正路売買の励行にも及んでいる。

 別に、同年五月六日づけで江州大津御役所から出された「被仰渡ニ付取締方并諸色値下ヶ書上帳」がある。問屋仲間の名称の廃止は三都のみならず全国的に共通の事で、物価値下げ、賃銀・手間賃の引下げも同様で、一村ごとに二〇日まで調査提出せよと述べている。加えて、百姓の衣食住にわたる風俗統制取締を記し、男・女・子供の衣類、襟裏口羽織紐まで質素倹約で粗末な品の使用を強要するほか、袋物・着物類、子供の玩具類、履物類、女髪結はもちろん、男髪結の禁止、在村の菓子屋・料理屋の禁止商売替、村々での三味線・じょうるり稽古の禁止の五点を強調する。このような領主からの触書に応じて、村中の申合せ・取締と諸物価・賃銀・手間賃の値下げを定め、総百姓三九人と村役人庄屋・年寄・百姓代三人の連印で、大津役所へ差し出している。すでに領主からの禁止対象の五カ条の上にたって、つぎの一〇カ条各項目にわたって村内の取締を励行する。すなわち、①男・女・子供の衣服は木綿を着用、②男髪結は女髪結を含め厳禁、③村内の菓子屋・料理店の禁止、④三味線をはじめ各種のけいこ事の禁止、⑤男女とも浴衣の着用禁止、⑥男日傘使用の禁止、⑦妾宅の類は禁止、⑧盆中踊りの禁止、⑨五月餝、人形、座敷幟の禁止、⑩木綿稼は五月節句から六月晦日まで農繁期に相当するため差止め、などであった。他方、物価の引下げと職人の賃銀については、各種にわたっている。木綿・木柴炭類・材木・竹・酒・醤油など・釘・鉄物・銅の類、荒物、傘提灯、紙ろうそく、竹籠細工ものに始まり、紺屋職、鍛冶屋桶屋職、肥料、牛馬駄賃、田植草取賃、綿打賃、綿繰賃、黒鍬手間賃、大工職賃などにまたがり藁屋根葺手間、農家稼・男女日雇賃銀などの各種の賃銀や手間賃などを含めており、社会経済生活の万般にわたっている。天保改革の都市の市民生活や経済活動を対象とした政策が、広く農村社会まで差し向けられたものである(近世Ⅲの一三)。しかしこれらに対する在地の反応は明らかではない。

写真255 天保13年「諸色値下書上帳」(石田家文書)