天保一四年六月に発令された上知令は、江戸・大坂周辺の入り組んだ所領を整理し、幕領として一元化すること、諸大名の在京賄い料の系譜を引く飛地を整理し城付領にまとめること、幕領の大名預地を解消し、直轄領とするなどをその内容としたもので、その目的は、所領の錯綜と飛地領であるがゆえに生じた支配の弛緩を克服し、幕府と諸大名の領地支配の強化をねらったものといわれている。市域では近江膳所藩をはじめ、伊勢神戸藩、常陸下館藩や旗本甲斐庄氏、水野氏らの所領があった。これらの領地はいずれも天保上知令の対象となったが、その経過と在地の対応について、膳所藩・下館藩の二者につき概観してみたい。
膳所藩の河内飛地領は錦部・石川・丹南三郡にまたがり、二九カ村約七五七七石余をしめるが、市域では佐備村と彼方村、龍泉村との三カ村があった(表126)。天保一四年六月二六日、河内飛地代官の一人北辻弥惣市に、上知の知らせがあった。北辻らは翌々日の二八日に藩の郡方役所に対し懸案の処理事項の仕法につきさまざまの申し出をしている。①幕府などへの願書や他領との関係一件などで支配領主の肩書をどうするか。②現在懸案中の金銀出入り一件の日限はどうなるのか。③調達講や助成講への懸込代金はどうなるのか。④領主側からの貸付銀・米としての郡方銀・新積立講銀貸付高・岩涌寺祠堂銀貸付高のほか、一〇〇両口御講銀高・三〇〇両口御講銀高などをあわせて、当時の貸付銀一九三貫一六〇匁二分五厘と用意米が二〇三石九斗七升二合に達しているが、これらの銀・米をどうするか。⑤その他、大坂表の御用達や幕府の将軍日光参拝への献上金、国防軍備用の御用金のことなど、指示をせまっている。藩側は「書面之通り」とか、「追而可申達事」とか、「取調之上可及沙汰事」等々と述べ、即答をさけている。七月に入り上知令の実施の準備にそなえて、村の高反別取調と地目の異動を対象とした調査が実施されたが、同月二一日に、河内三郡惣代として、佐備村徳次郎を始め古野村浦田与兵衛、三日市村安右衛門、市村栄蔵、石仏村弥次兵衛、加賀田村勇蔵、上原村新兵衛らが新領主たる築山茂左衛門・竹垣三右衛門両氏立会役所に出頭すると、以下の書類を来る二九日までに提出するよう指示された。①去る酉年(天保八)から寅年(天保一三)までの六カ年間の物成米辻、これについては本途・新田・口米などの区分仕訳を明確にし差し出すこと、②巳年(天保四)以来の一〇カ年間の免状と皆済目録、③地頭役人から渡した過去一〇カ年間の小手形などの受取証、④一〇カ年分の年貢米銀割符帳などであって、いずれも上知にそなえての貢租関係の必要書類であり、土地関係の書類とともに、他藩領などの場合と同様であった。また定免や武具類の所持調査なども行われている。
村落名 | 村高 | ||
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錦部郡 | 石 | ||
野村 | 小出領と入組 | 98.880 | |
惣作村 | 210.000 | ||
上原村 | 572.222 | ||
小山田村 | 三好領と入組 | 587.337 | |
下里村 | 484.743 | ||
天野山 | 山高 | 143.800 | |
加賀田村 | 817.867 | ||
唐久谷村 | 38.927 | ||
新町村 | 54.050 | ||
石仏村 | 222.520 | ||
上岩瀬村 | 132.517 | ||
下岩瀬村 | 128.628 | ||
片添村 | 287.824 | ||
三日市村 | 石原代官領と入組 | 84.250 | |
喜多村 | 甲斐庄領と入組 | 143.029 | |
古野村 | 151.321 | ||
向野村 | 狭山領と入組 | 103.562 | |
市村 | 893.420 | ||
市村新田 | 618.312 | ||
小塩村 | 狭山領と入組 山高 | 0.896 | |
滝畑村 | 〃 〃 | 63.000 | |
観心寺村 | 山高 | 0.467 | |
石見川村 | 狭山領と入組 山高 | 17.800 | |
鳩原村 | 〃 〃 | 19.567 | |
大井村 | 〃 〃 | 10.000 | |
彼方村 | 狭山領と入組 | 504.840 | |
石川郡 | 佐備村 | 1001.022 | |
竜泉村 | 下館領と入組 | 7.257 | |
丹南郡 | 向野村 | 秋元領と入組 | 33.439 |
しかし、当時もっとも緊急な問題の一つとして、領主と農民間の貸借関係の整理・清算といった問題があった。他藩と同様に膳所藩も財政難に悩まされていた。このような情勢下で、年貢増徴を基本とする従来の政策だけでは不充分であり、確保した貢租や民間からの御用金を利殖して実収入をふやす、いわゆる公金貸付政策を実施した。このような領主的金融講の一つとして、天保六年八月から、河内領の農民を対象とした新積立講があった。講加入総代として佐備村徳次郎以下三人が、講の用懸りとして彼方村庄屋久兵衛以下三人の計六人で運営に当たっていた。上知に当たって河内領の農民に対する拝借貸付銀は、八二貫五五〇匁余にのぼっていた。そこで村々の庄屋と拝借人が呼び出され、八二貫余のうち三〇貫は閏九月一五日(上知実施の予定日)まで、冥加銀として返済上納し、残銀はこれまでの仕法どおりで積立講を実施相続させることになった。
つぎに藩主が将軍の日光参詣に供御し多額の経費が必要で、河州領で二〇貫の御用金を九月三〇日までに上納することになっていた。ところが、銀四貫八七五匁は佐備村治兵衛以下八人が引き請け、残額の一五貫一二五匁は河州三郡の領知高に割り当て、賦課することで落着した。また郡方年賦拝借銀も、拝借の元利銀一〇貫をとりあえず上知の日限まで上納し、残額は追って沙汰することに決まった。
ついで河内領村々の農民は、三〇〇両口と一〇〇両口の両講からそれぞれ銀一八貫七三五匁と、銀六貫五三〇匁とを借銀しており、上知に際しその清算のことが問題となった。この講は河内領村々の助成のためと称して、月八朱の利息で、村々へ貸し付けていた。しかしその内実は、一〇〇両口は天保五年(一八三四)から、三〇〇両口は同八年から、都合四〇〇両を年六朱の利息で佐備村の治兵衛が出銀していたものである。そして藩が佐備村治兵衛から出資をうけ年六朱の利息を支払い、村々には月八朱の利息で貸し付けて、その差額を藩の収益としていた領主的金融講であった。あわせて、農民救済の意味をもっていたとされる。処で上知令が実施になるので、藩のとった処置は、これを拝借の農民の借入金とし月八朱の利息をつけ村々から直接に治兵衛へ返済し、治兵衛にはこれまでと同様に、仕法を続けていきたいと伝えている。この場合は、借り主を藩役所から村々の農民へ切り替えて、講会の継続方を考えたのである。
また別の問題として、九月に入り藩側は観心寺大門の修復料として金一〇両を下賜した。築山・竹垣両代官所から郷村諸書物を、九月下旬に引き渡せるよう用意されたいと下達があった。河州領分二一カ村村明細帳をその控とともに四二冊、古明細帳三冊を一緒に差し出したことがあった。
九月一五日には安民録講の問題が起こってきた。膳所藩では文化二年(一八〇五)に安民蔵が始められた。これは備荒救急用として、領主側と農民側との双方が合同して米穀などを貯蔵した一種の救恤機関で、文化三年に病死した藩主康完(やすさだ)の遺言によって、藩主から米一〇〇〇俵が下付されて、その基礎が確立されたとされている。それは近江栗太郡の藩領矢倉村の勘次なる農民が、米二〇俵を冥加として上納したが、これは質素倹約を守り村方に役立てたいという趣意で発足し、奇特のことでもあるので、藩側では、安民録として備え置かしめることにしたといわれる。郷倉として各村に設けられ、各村の庄屋、年寄が管理して、各地の代官が米穀の出し入れに当たり藩庁へ届け出たものである。これと関連して安民講なる一種の講が結ばれ、具体的な仕法などは不明であるが、村を単位とするほか個人としても加入ができた。備荒貯穀に名をかりて、藩が財政上の一財源と考え藩庫への利得を見出したものであろう。上知一件と関連して、この安民録米は郷中へ返還することになり、また、非常時の郷手当米二〇〇石は藩からの貸付米であるから、藩へ返却させることにした。以上で、上知令の実施に伴う領主と農民との金融貸借関係の跡始末を中心として概観してきた。
上知の実施予定の日程が近づいた閏九月四日に、村絵図・印鑑帳および村々の公印・村方の社寺制札と藩奉行名義の高札や、村々の猟師筒・威鉄砲類などの貸借書類、その他係争中の公事出入・金銭出入一件の取調帳などの差出しを要求され、翌五日には村々の役人が出仕して、村絵図や印鑑帳への調印をすませた。そのとき、郷用意米の残米七四石は囲穀の形態で下付された。この間、河内三郡領知村々の庄屋・年寄・惣代らは、上知に伴う領主の交代に対して、旧領主の仁政に感謝し惜別の念を表明し、領主の心情に訴え上知令の撤廃を最後まで強く願っている。また、宿駅の三日市村は年貢の用捨引で村勢が回復してきたので、領主への報恩のしるしとして、銀八六〇匁を領主へ献納している。他方、領主側も今までの上知の諸準備のため骨折った村方の村役人層などに対し、金子や物品を給付して、その労に対し報いており、佐備村の徳治郎・彼方村久兵衛らも含まれている。
しかし政局はその後大きく変化し、かつて水野の上知令に賛成派の一人であり、その幕閣であった老中土井利位や同じく堀田正篤らが、水野の反対派に回り、紀州家や大奥を動かし上知令を中止させるように動いており、閏九月七日には上知令の中止が発せられた。一三日には御用達の播磨屋周助から北辻代官あて、飛脚便で上知令の中止が書状にて届いた。他の河内領三郡支配の代官にも同じく上知令の中止が内達された。そこで、北辻代官父子や郷惣代の二人が膳所表役所へ出張すると、藩の役人田河藤五郎から書付が渡され、「万般以前之通被仰渡」と下達があった。ついで藩側から以下のような触達しがあった。①村々の囲籾については、上知令の発令以前のような仕法となった。②安民録米は、一応、郷用意米で賄い残米七三石余は領主側から給付する。③郡方年賦拝借銀は一〇貫匁の上納が相済んだので残銀は用捨する。④積立講銀関係は、御勝手懸りから追って沙汰がある。⑤岩涌寺祠堂銀と山林材木植付けは先達てからの取り決めに従い処理。⑥古野村代官屋敷の修補については、郡方から入用銀の下付を願う。⑦三日市村の宿駅からの献上冥加銀は、もとどおり差し戻したい。⑧提出した諸帳簿・絵図類は、一郡ずつ、まとめて返却する等々と述べている。翌日、藩側から河内飛地領三代官に、上知一件で格別の骨折りであったというので、米二俵をそれぞれに、北辻代官にはさらに金三〇〇疋の給付があった。別に河内領分の村役人を呼び慰労として酒肴を賜り、上知のための諸帳簿を榊原帯蔵の手を通じ返却されることになった。かくて藩役人はもちろん、河内領代官、村々村役人一同、お互いに「一統喜悦申上難有仕合」であるといって、喜びあったといわれている(福島雅蔵『幕藩制の地域支配と在地構造』)。