尊攘運動

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天誅組とは、土佐藩を中心に、久留米・鳥取・三河・佐賀などの脱藩士が結成した尊王攘夷の最激派で、文久三年(一八六三)八月、中山忠光を擁して大和に挙兵、五条代官所を占拠、十津川郷士を糾合して大和高取城を攻撃し失敗した。その間、八月一八日の政変により政情は一変し、追討諸藩兵の攻撃に敗れ、翌九月壊滅した、武力討幕の先駆的役割を果したものとして記憶されている。この挙兵に河内からも十数名の志士たちが参加した。彼らを天誅組河内勢と呼ぶが、河内の地方的要因よりもむしろ、すぐれて中央政局の激しい闘争の中から生起した事件に地方勢力がかり出されたものである。挙兵は文久三年八月一三日の大和行幸の勅命を直接の契機としており、尊攘運動が最も高揚し、かつ公武合体派のまきかえしにより運動が挫折していく、まさにその瞬間に起ったという歴史的位置を占めている。

 尊王攘夷思想は本来反幕的なものではなく、水戸学などに源流をもつ委任論すなわち幕府の将軍も天皇から政権を委任されたものと考え、朝廷の権威によって幕府権力を回復強化しようとするものだった。これが反幕的な性格をおびるようになるのは、大老井伊直弼の独裁政治以降である。ペリー来航によって開国の是非が問題となるにおよんで、幕府の当時の阿部政権は、朝廷や諸藩に諮問し、それらの政治的進出をもたらした。孝明天皇はじめ公家はおおむね頑固な攘夷論で開国に反対し、雄藩は譜代大名独裁に対抗する自らの政権進出の機会ととらえ、一橋慶喜を立てての将軍継嗣問題に発展した。しかし井伊は無勅許独断で条約に調印したうえ、将軍も慶福(のち家茂)に決定し、反対派を大量に弾圧した。安政の大獄である。この強権的政治は反対派を結集させることになり、井伊は桜田門外で暗殺された。

 続く久世安藤政権ももはや幕府独裁を維持できず、公武合体策で和宮降嫁を実現するが、尊攘派の憤激をかい、安藤信正も坂下門外で負傷させられる。開港による貿易の開始は、ようやく国内経済への深刻な影響をみせはじめ、経済の混乱、物価の急騰などで、尊攘運動はますます高揚し、他の勢力とは独自の動きをはじめ、外国人への天誅の流行など、過激化した。こうした時期中央政界にのり出した薩摩藩の島津久光は、率兵上京のうえ幕政改革を断行させた。久光の上京を機に討幕の兵をあげようとした尊攘派志士たちは、寺田屋で多くが斬られ、計画は挫折した。ところが、久光が江戸にいる間、長州藩の毛利敬親・土佐藩の山内豊範があいついで入京し、京都は尊攘派が制圧した。幕吏や佐幕派廷臣へのテロが荒れ狂い、久光は失望し帰国する。今度は攘夷実行と親兵設置を要求する勅使が江戸へ向かった。

 こうして文久三年をむかえ、尊攘運動は絶頂期を迎え、朝廷には国事参政・国事寄人が設置されて尊攘派の少壮公卿らが任ぜられ、学習院は志士たちの巣窟となり、朝廷は完全に尊攘派の手中に帰した。三月七日には勅命により将軍家茂が上京、親兵設置が決定し、攘夷祈願のための加茂社、石清水社への行幸が行われた。家茂は攘夷決行を迫られ、その期限を五月一〇日とやむなく答え、さんざんいためつけられた末、六月一三日江戸へ帰った。尊攘派は、猛烈なテロで脅迫を加えながら、長州の軍事力を背景に朝廷を牛耳り、幕府に対し実行不可能な攘夷を督促し、窮地に陥れていったのである。