家茂が京を去った前日の六月八日、真木和泉が入京した。久留米水天宮の神官で当時五一歳、尊攘派随一の理論家として「今楠公」と呼ばれもてはやされていた。寺田屋の変により幽囚の身となったが、公卿および長州藩の奔走で釈放され、上京後は学習院御用掛となった。真木はすでに安政五年(一八五八)、夢に託して倒幕のプランを示していた。それは、天皇みずから有志大名に令して勤王の軍を募り、東征の途にのぼり、箱根にすすみ大老・老中を召し出し、違勅の罪をせめて切腹を命じ、親王を安東大将軍に任じて江戸城に置き、将軍は甲駿の地に移し、大いに更始の令を布くというものである(「大夢記」)。天皇が名実ともに国の大権を掌握する天皇親政であり、さらにそこに至るための王政復古の方法を「義挙三策」で具体的に述べた。すなわち、勤王の決断ある諸侯に依拠して挙兵する上策、義徒が結集して藩兵や農民あるいは力士・盗賊の類を利用して幕府の要所を占領する中策、少数精鋭の義徒だけで放火・闇討などの攪乱戦術を行う下策とに分けたが、義徒による挙兵を「危うくして用うべからざる」下策としていたことが注目される。
六月一六日、桂小五郎らに示した「五事建策」で攘夷親征、土地人民の権を朝廷に収めることなどを説き、長州藩の支持を得、その後三条実美や久坂玄瑞らの猛烈な運動によって、ついに八月一三日、攘夷親征のための大和行幸の詔が出された。
このたび攘夷御祈願のため大和国に行幸し、神武帝山陵、春日社など御拝し、しばらく御逗留して御親征軍議あらせられ、そのうえ神宮に行幸のこと
さらに長州はじめ薩摩・土佐など諸藩主に行幸費用を出させ、その他十余藩主にも随行すべしとの命が伝えられた。親征に名をかりて、大和行幸し、幕府に攘夷の勅命を伝え、幕府が実行しなければ直ちに違勅の罪をならし、討幕の挙に出て王政復古しようとの計画であり、まさに真木のいう上策にあたるものである。そして攘夷よりも実は討幕に力点があるというのが重要である。予定は八月下旬ないし九月上旬を以て出発とされた。
しかしこの計画には反対が多かったうえ、孝明天皇自身が乗り気でなかった。天皇は強烈な攘夷論者であったが、幕府を倒そうという意志は毛頭なく、攘夷は現実の政治体制、幕府中心に公武合体で行おうと考えていた。徳川氏を討つとなると和宮を討たなければならず、先帝にも申しわけなく、肉親としても忍びない。攘夷の開戦も時機尚早であり、自分の親征はしばらく延期したいなどと中川宮にもらし、心労で夜も眠れぬ日が続いていたという。大和行幸計画はいささか心もとないものだったといわなければならない。