八月一四日、前侍従中山忠光の名で、大和行幸の先鋒として大和へ向かうという回章がまわされた。京都方広寺に集まった三八名は、忠光を大将に出発した。一行は伏見から船に乗り、吉村寅太郎がすでに準備していた甲冑武具の類を積み込んで淀川を下り、翌一五日一〇時ごろ大坂土佐堀常安橋に着いた。しばらく休憩の後、早船二隻を雇い、長州へ向かう勅使の先手を称し、天保山沖へ出たのち、にわかに船首を転じて堺へ向かった。
堺へ向う船上、陰暦一五日の満月のもと、彼らは各々髪を切って海中へ投じ、元どりを結い実に勇壮な有様だったという。この船中で「軍令書」が示された。これには、敵地の賊民といえどもみだりに乱暴したり殺したりしないこと、毎朝、伊勢大神宮・京都御所に向かって遥拝すること、公平無私にして功を私することがあってはならないこと、その他軍令上のことも多岐にわたって決められている。松本奎堂と藤本鉄石の合作らしく、きわめて道徳的で厳格な内容になっている。
この挙兵の事実上の中心人物は吉村寅太郎だったとされている。それは中山忠光を下関での外国船砲撃に参加させたのは吉村であり、吉村は忠光の「最も推服せる」一人といわれたこと、挙兵直前の八月一〇日、一二日、一三日とたてつづけに謹慎中の忠光宅をおとずれ連絡をとっていたこと、また京都出発の三八名中一八名が土佐出身者で占められていたことなどがそれを裏づけている。
吉村らがわずか三八名という少人数でしかも拙速に挙兵したのはなぜなのかという疑問がある。もちろん河内勢や五条からの参加をあてにしてはいるが。吉村は寺田屋の変のあと、「何分干戈を以て動かさざれば、天下一新致さず、然りと雖も、干戈の手初めは諸侯決し難し、則ち基を開くは浪士の任なり」といい、挙兵討幕は大名の手では行われないから、その口火を切るのは自分たち浪士でなければならないとしている。この言葉は、藩全体を討幕の方向へ持っていくのが困難だった土佐藩の事情をも反映しているのだが、これこそが天誅組の挙兵の意図を明確に示している。前述のとおり、大和行幸計画は真木和泉の理論から出ており、真木はあくまでも雄藩の軍事力に依拠しようとした。天誅組の意図は真木のいう下策ないし中策にあたる。にもかかわらず、あわただしく挙兵したのは、彼らが藩権力を利用できない脱藩士の身の上であり、浪士による義挙が彼らにできる唯一の方法だったのである。そのことを彼らも自覚していたようで半田門吉は挙兵の趣意書に「奇を以て御親征を促すの術策」と述べている。大和行幸計画の推進者である三条実美などは天誅組の挙兵を知らなかったらしく、挙兵三日後の一七日には平野国臣に鎮撫を命じ、「親征近きに臨み、妄りに暴動すべからず、却って妨害をかもすに至るを怖る」などと不支持の立場をとるのである。天誅組の主観はともあれ、大和行幸計画とは無関係のものであり、彼らの勝手な思いこみによる暴発という側面が強い。だから、半田門吉が「若し干戈を動かす遅滞に至らば姦党悪計を企て深く熟して四海瓦解に至らんこと必然」といったり、代官所襲撃のあと、忠光が三条らに「御延引等相成候はゞ、切角の機会を失し可申候、右等議論致候も無用…四五日内行幸相成候様」などと、決行を強く促しているように、天誅組には大和行幸計画が中止となることへの不安とあせりがつきまとっていた。あるいはことの成否はどうでもよいと考える部分もあったかもしれない。「軍令書」の中に大義のみに殉ずる理想主義、純粋性を見るとすれば、はじめから展望のなさ、捨て石的な彼らの義挙の性格に根拠があるのだろう。