水郡善之祐

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富田林地域において志士たちを結集させ、天誅組挙兵の準備に最も力を尽くした領袖こそ水郡善之祐である。文政九年(一八二六)一一月一二日生れ、名を長雄といい善之祐はその通称で、のち大和五条で小隼人と改めた。水郡の生れた甲田村は当時伊勢神戸藩領で大庄屋の家柄、彼も嘉永六年(一八五三)三月家督を継いで大庄屋となり、神戸藩の士籍に列せられた。善之祐の代で高三〇〇石、使用人五〇人といわれた富農であり、その人となりは「稟性沈毅、居常弁を好まず、躬行を以て先と為」し「人に接するに謙遜」にして郷人から畏敬されていたという。青年時代より武芸に励み、二二歳で三浦流柔術中伝目録、二六歳で天羽流兵法の目録をうけ、自邸内に道場を設け、近郷の人々を集めていた。その中に、森元伝兵衛・和田佐市・鳴川清三郎・仲村徳治郎・田中楠之助ら後の天誅組メンバーがいる。彼が大庄屋を継いだ嘉永六年(一八五三)(ペリー来航の年)、このころから窃かに回天の志をいだき、天下の志士と交り、盛んに尊王攘夷を説くに至ったという。実際このころから訪れる他国の志士たちも増え、水郡宅には武者修行と称して寄食するもの常に十数名を下らなかった。その中の松田重助や因幡の石川一、島原の保母健らを十津川へ人情視察に行かせたりもしている。文久元年(一八六一)になると家事を弟の謙三郎にまかせ、自分はしばしば京都へ赴き、諸国の志士たちと交遊し、文久三年二月には足利三代木像梟首事件に参画した。そのころ吉村寅太郎と会い、一朝国家有事の際は十津川郷の天嶮拠るに足り、其人士亦共に謀るに足るなどと意気投合することになるのである。

 このように水郡は名実ともに河内勢の中心人物として尊攘運動に挺身していくわけだが、その契機として、『天誅組河内勢の研究』の著者であり謙三郎の孫にあたる水郡庸皓は、徳川幕府に対する先祖伝来の恨みといったことを強調した。氏によると、元禄以前のこと向田村と板持村との境界争いで、板持村が天領であったため向田村は敗れた。庄屋喜右衛門と年寄喜兵衛が江戸に召されて吟味を受け、争いのあった河原ではりつけにされた。これは大ケ塚村庄屋の記した『河内屋可正旧記』に書かれているが、水郡家第九代喜田惣左衛門為俊(水郡家は以前喜田といった)がこのどちらかであるという。また寛政四年(一七九二)、閑院宮家出身の光格天皇が父典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたが、幕府は認めず、関係した議奏中山愛親(なるちか)・武家伝奏正親町公明に逼塞(ひっそく)を命じた尊号事件があった。その後、幕府の処置に憤った愛親の子中山忠伊(ただのぶ)らは諸国の同志を集め、討幕を計画したが、こと破れ、忠伊は自刃、他も流罪などとなった。この時一三代喜田岩五郎長義(通称万右衛門)は神戸藩代官であったが、事件に関ったらしく、文化六年(一八〇九)から天保六年(一八三五)までの実に二五年間、伊賀名張藩家老堀江氏のもとへ流罪になっている。ために養子の一四代岩五郎長悦は産土神の水郡神社の社号をとって水郡と改めた。そしてその子が一五代水郡善之祐なのであり、彼の尊攘運動への加盟の契機は、祖父の感化だというのである。

写真260 水郡善之祐墓 (養楽寺境内)