河内勢の人々

1030 ~ 1033

天誅組に参加した河内勢の志士たちは、表129に一七名あげている。田中・長野は京都出発組、水郡父子・森元・浦田・和田・鳴川・仲村・辻・吉年の九名は一六日前後から一行に加わった。三浦は平野国臣・安積五郎らを五条へ案内して来て八月一九日から加わったし、武林・内田・東条・秦の四人は八月二〇日五条で合流している。上田のこのころの動きは不明である。

表129 天誅組河内勢の人々(は生存者)
氏名 年齢 身分・地位 天誅組の役割 分裂後の所属 生存
水郡善之祐 38 甲田村 大庄屋・士籍 小荷駄奉行 河内勢 刑死(7月)
水郡英太郎 12 善之祐長男 伍長 河内勢
森元伝兵衛 30 年寄役 小荷駄方 本隊 刑死(7月)
浦田弁蔵 34 豪農 河内勢
和田佐市 32 百姓 伍長 河内勢 戦死
鳴川清三郎 39 新家村 庄屋 兵糧方 河内勢
仲村徳治郎 25 富田林村 酒屋 河内勢
辻幾之助 29 木綿屋 執筆方 河内勢 刑死(7月)
三浦主馬 48 医者 本隊
吉年米蔵 49 長野村 庄屋・士籍 (歩行困難で不参加) ―― 獄死
武林八郎 23 百姓 本隊 禁門の変で死
内田耕平 23 医者 (医者として転戦) 本隊
東条昇之助 37 米屋 河内勢
秦将蔵 34 向野村 代官養子 本隊 戦死
上田主殿 24 鬼住村 神戸藩士 ―― 天誅組に殺さる
田中楠之助 21 法善寺村 大庄屋二男 砲一番組長 河内勢 刑死(7月)
長野一郎 25 大ケ塚村 医者 伍長兼薬役 本隊 刑死(2月)

 ここにあげた一七名の共通した特徴として、第一に、代官・庄屋などをつとめる豪農層がほとんどだという点である。伊勢神戸藩より長野代官所に任命のない時は、水郡・吉年・上田家が代官をつとめたが、当時は水郡善之祐が大庄屋、吉年米蔵が庄屋、上田主殿の兄が長野代官所に勤務していた。秦将蔵は膳所藩代官達野孫三郎の三男に生まれ、嘉永二年(一八四九)に和泉国大鳥郡田園村で旗本小出伊織の代官小島小右衛門の養子となっている。鳴川清三郎も庄屋で、辻幾之助の父は毛人谷村の庄屋を勤めたことがあり、田中楠之助も法善寺村から信貴山まで田畑をもっていた大庄屋の二男、さらに三浦主馬ももとは八上郡石原村今井の庄屋和田林右衛門の弟であり、挙兵の際、和田家の財産の半分を持ち出したという。森元伝兵衛は甲田村の年寄役(組頭)として水郡と協力して村政発展に努めてきた間柄、仲村徳治郎は先述のように酒屋、東条昇之助は米屋、浦田弁蔵も豪家で相当の資産をもち、金二五〇両・銀八〇〇目をこの運動に投じたといわれる。尊攘派志士の出身階層の一つが、農村の支配層で裕福な階層であることは、河内勢にそのままあてはまる。

 第二に、年齢層が高いことである。水郡英太郎を除いた平均年齢は約三二歳である。天誅組の役割分担表に出ている五二名(一名年齢不明)の平均は二七・五歳、一番多い土佐一八名の平均が二五歳、次に多い筑後八名の平均二七・六歳などと比べると明らかである。京都出発組などが脱藩した下級武士が多いのに対して、天誅組を迎えた河内や大和は、庄屋などが多く、働きざかりの社会的地位もある豪農層であるという階層の違いが年齢にもあらわれている。

 第三に、河内勢は単なるイデオロギー上の結びつきではなく、地縁・血縁関係で結びついていた。例えば水郡家一〇代宗右衛門の妻は仲村甚右衛門信勝の妹、水郡家と辻家、水郡家と田中家がそれぞれ親戚、東条は吉年の娘と結婚しており、吉年と長野も親戚といった具合である。また、善之祐の祖父が天保六年(一八三五)自ら発起人となってつくった喜田講は近在の有力者百数十名を組織しているが、その中に、浦田・吉年・仲村・鳴川・辻・上田らが名を連ねており、以前からの強い結合をうかがわせる。

 ところで河内の関係者は以上の一七名にとどまるものではない。天誅組百年祭の際にあげられた関係者氏名は、挙兵しなかったものの協力した者、軍夫・人足として同行した農民などを含め、総計六四名にのぼる。その中に、身分、行動などからして河内勢には加えないが、道明寺村の真宗尊光寺に生れ当時大和法隆寺村に住んでいた勤王の歌人伴林光平(記録方として活躍)がいるし、甘南備村の豪家で、代官松尾に止められ、遅れて観心寺で一行に追いつき、以後藤本鉄石附の士として最後まで転戦した松崎万吉、三日市の錦渓温泉の油屋旅館で一行を迎え、駕籠・人足などの手配をした西川(油屋)庄兵衛、水郡邸に菊の御紋をうった旗一流・幟(のぼり)一本をとどけた提灯屋政治郎、長野一郎の兄で、のち九月二日に捕えられ、九月四日取調中に自刃した吉井見竜らの名もみえる。

 さらにそれ以外にも、善之祐の叔父にあたる太田平左衛門、善之祐の父岩五郎長悦の里泉州石津の代官である太井民之助、道明寺の三根文治らは時機尚早として挙兵には参加しなかったが、心よせる者たちであった。太井は、八・一八の政変を知り、八月二二日五条へ善之祐を呼びもどしに行ったが、善之祐はきかなかったという。

 こうしてみると、天誅組をささえた河内の関係者は随分多数になり、それなくして挙兵は不可能であったことがますます明瞭になる。また河内勢の志士たちは各人個別に天誅組に加盟したのではなく、水郡善之祐を中心に一団のまとまった勢力として参加していた。そして天誅組の規約を越えるより強い結束が彼らにあって、これが党中党をつくる要因となり、のちの脱退の萌芽がひそんでいた。天誅組はそもそも土佐を中心とする京都出発組と、河内勢、大和勢という異なる三つの集団が合体したものであった。