八月一七日夜半すぎ、天誅組一行は、水郡邸を出発した。陣太鼓をならし、主将は騎馬、他の者は徒歩である。長野村では吉年米蔵が一行を迎え、代官吉川治太夫も激励した。午前三時ごろ三日市の油屋庄兵衛の旅館で夜明けまで休憩、人足六〇人ばかりを調達して、八時ごろ出発、昼前に観心寺に到着した。ここで一行は後村上天皇陵、楠木正成の首塚に参拝し、決意も新た、水郡邸から準備してきた菊の紋章をかかげ旗上げを行った。一行に遅れていた(軍資調達のための別行動らしい)藤本鉄石が力士福浦元吉を従えて追いついた。昼食は吉年が一〇〇人前用意させたものをとり、観心寺も忠光に勤王の印として甲冑一領を贈った。吉年はここで帰る予定だったが許されず、結局千早村まで同行したが、四九歳の年長で、かつ体躯肥満のため歩行困難となり、一行と分れ、以後武器・弾薬・糧米の調達や後方連絡に当ることとなる。白木役所配下の人足を五〇名ほど調達して一行は千早城跡を左手に、千早峠の急坂をこえ、峠から二手に分れ、岡八幡で再び勢揃いし、五条代官所襲撃の準備をととのえた。血気にはやる一行は槍の穂を立て直し、激しく石突をつく、あるいは抜身を打ち振るなど、そのすさまじさに人足たちはふるえあがった。
天誅組が五条を挙兵の地に選んだのは、行幸予定の大和にあって、吉野・宇智・宇陀・葛上(かつじょう)・高市の五郡四〇五カ村七万五千余石の天領を支配する代官所であり、彼らの目ざすのが討幕である以上、そのほこ先は幕府領に向けられる理由があった。幕藩体制下において代官所は、ごく僅かの役人しかおらず無防備に近く、五〇~六〇名の少数部隊で襲撃することが可能であった。そのうえ、五条は、大和平野から紀州や大坂平野に通じる交通の要地であること、森田節斎を中心に尊攘派の地方的志士団が形成されていたこと、古来勤王を以て名高い十津川を背後にひかえていること、勤王僧を多く輩出している高野山も近いこと、南方は山岳あい連なり守るに易く攻むるに難しという地形であることなどの有利な諸条件があった。
天誅組が五条代官所襲撃にとりかかったのは夕方四時ごろになっていた。ゲベール隊長池内蔵太らは表門より左の裏手へ、和砲隊長半田門吉らは表門より右へ廻り、槍隊の吉村寅太郎・上田宗児らは裏門より、代官所を包囲した。代官鈴木源内に面会し、「このたび幕府は朝敵ときまり、討幕の仰せがあり、京都からおいおい軍勢も来て、我々は近国取締りとして中山侍従を大将として来たものであり、代官所と所管の村々を速かに引渡すよう」に要求したが、源内が拒否したので、即座に代官を討ち取り、手代の長谷川岱助・黒沢儀助・伊東敬吾と居合わせた按摩の嘉吉も殺した。代官所には一三名ほどの役人がいたが、他の者も捕えられるなどして、制圧は完了した。しかし天誅組は東へ二、三町離れた桜井寺を本陣とし、代官所はことごとく焼きはらった。夜一二時すぎ、河内から連れてこられた人足九七名は境内にへたりこんでいたが、握飯四個のはいった竹の皮づつみと酒代金一〇〇〇疋およびわらじ一足が渡され、あとは勝手に引き取るように申し渡された。三日市人足は五条の町宿に泊まったが、千早人足はすぐさま引き取り、なかには恐しさのあまり、後もふり向かず、一目散に千早峠を越え、夜道を駆け戻った者もあったという。その夜桜井寺の石の水盤にのせられて一夜をあかした五つの首級は、翌一八日朝須恵の道端に梟(きょう)せられた。