代官所襲撃が五条の人々に与えた衝撃は大きかった。天誅組の新政府は早急にその方針を示し、体制を固めて人心を慰撫しなければならなかった。まず村役人を集めて、次の布告を出した。
此度此表発向の趣旨は、近来攘夷被仰出候得共、土地人民を預り候者共、専ら驕奢のために御民を害し候上、却て攘夷の叡慮を奉妨候族多く、且近日御親征被仰出候調の為に候、既に當地代官鈴木源内は、最甚き者故加誅戮候、以後五条代官支配所の分は、天朝御直の御民に候間神明を敬ひ君主を重んじ候御国体を可致拝承候、此に本に復り候御祝儀として、本年の御年貢此迄の半通り御免被成候、向後取箇之事手軽にいたし遣はし度候得共、猶奏上の上、可及沙汰候事
代官誅戮の理由、以後は天朝直轄の民とすること、年貢を半減とする事などを宣言した。さらに諸藩・武士に対しては、義挙に加わることを呼びかけ、「若し会盟せざるに於ては、不移時日、可糺其罪事」と威嚇もし、五条に最も近い高取藩に那須信吾らを派遣し、また上田宗児らを高野山へ遣わし、協力するよう申し入れた。一般民衆へは、「天誅へ加はり度者在之候はヾ、苗字帯刀御免被成下、其の上五石二人扶持被下」といった挙兵参加の呼びかけや、生活困窮者に対して過米の買上げ、新米をもって払米すること、孝子の表彰や奸曲の者をこらしめることなど布告し、実際に「悪徳」の庄屋などを襲い、その財産を百姓に分け与えるなど、民意をつなぎとめることに努めた。
その間挙兵参加者が少なからず来会し、一行の意気をいよいよ高めた。平岡鳩平は青木精一郎を伴い法隆寺村からやってきたし、河内出身の伴林光平も手紙で参加を求められ、一六日、大坂広教寺の歌会に出ていたところ、急報を聞き、武具をそろえて五条へ駆けつけた。当時五一歳であるから天誅組の最年長になる。その他宇陀の林豹吉郎(ひょうきちろう)・五条の乾(いぬい)十郎・井沢宜庵も戦列に加わった。
桜井寺の本陣で発表された「和州浪士役割」では、主将中山忠光、総裁藤本鉄石・松本奎堂(けいどう)・吉村寅太郎・側用人池内蔵太・監察吉田重蔵・那須信吾・酒井伝次郎以下全員の役割が定められた。河内勢の主なものは、水郡善之祐が小荷駄奉行、鳴川清三郎が兵糧方、辻幾之助は執筆方、森元伝兵衛が小荷駄方などに任命された。河内勢は戦争の長期化に備えて、兵站部(へいたんぶ)として重視されたことがわかる。
天誅組は軍資の調達にもおこたりなく、五条の掛屋久宝寺屋藤助・銭屋佐太郎両名に御用金を命じたのをはじめ、豪農・豪商も献金した者が多かった。また高取藩も天誅組の要求すべてには応じかねるとしながらも、二〇日早朝、長柄槍三〇本・銃二〇挺・乗馬二匹などを差し出し、米も追って送る旨を約束した。代官所支配下の村役人には高一〇〇石につき人足一人、草鞋(わらじ)一〇足ずつ差し出すことも命じた。こうして天誅組は大和行幸を迎える準備を着々と整えつつあったのである。