そのころ京都では尊攘派に対して決定的な反撃をすべく、公武合体派の間でクーデター計画が秘密裡に進められていた。文久三年(一八六三)八月一八日クーデターは決行された。午前一時朝彦親王(中川宮)が突如参内し、守護職松平容保(かたもり)・所司代稲葉正邦の指揮する会津・淀藩兵が続々入門し、ついで近衛忠熙(ただひろ)・忠房父子・二条斉敬(なりゆき)らが召命され、薩摩藩兵らに護衛され参内した。御所の九門は厳重に閉され、午前四時警備完了の号砲がとどろいた。早朝からの朝議では、筋書きどおり、三条実美ら過激派公卿二〇余人の参内・他行・面会の禁止、国事参政・国事寄人の廃止、長州藩の堺町門警備の解任および退京命令、天皇の大和行幸の延期などが、矢つぎばやに決定されていった。駆けつけた尊攘派公卿たち、長州藩士などは門の中へ入れず、堺町門では薩摩・長州両者の対峙が続き、一触即発の緊張が高まった。そして双方が撤兵したのは夕刻であった。尊攘派公卿・長州藩士らは軍議の末、ひとまず長州に下って再挙を図ることに決し、おりから雨の中、三条ら七卿と真木和泉・久坂玄瑞ほか長州藩兵千人余は蓑笠(みのかさ)・草鞋に歩行の哀れな姿で都落ちした。七卿は官位を剥奪され、長州藩へも藩邸から全員撤去するよう朝命が下った。こうしてクーデターは成功し、尊攘派は京都から一掃された。八月二六日、孝明天皇は「これまではかれこれ真偽不分明の儀これあり候えども、去る一八日以後申し出ずる儀は真実の朕の存意に候あいだ、このへん諸藩一同心得違いこれなきようのこと」と意志を表明したのである。天皇にははじめから大和行幸などする考えはなく、一部過激派の策動に出たものであることが明らかになったのである。天誅組の計画はいまや全く水泡に帰した。
天誅組にもどろう。クーデターに先だって挙兵を知った三条実美らは天誅組の計画を未然に防ごうとして、筑前の平野国臣をつかわした。国臣は安積五郎と池田謙次郎を伴い、一八日夕方水郡邸に着き、翌一九日富田林の医師三浦主馬の案内で夕刻五条についた。国臣は、挙兵は時期尚早であり、あまり手荒なことをするなと差し止めた。まだ彼は政変を知らない。もう一人天誅組の情報係として京都にいた古東領左衛門が政変を知って早馬を飛ばして五条に駆けつけ、朝議一変、行幸中止を伝えた。しかしすでに代官を血祭りにあげて意気さかんな彼らは、平野らの言葉に耳を傾けようとしなかった。もはや後もどりはできなかった。国臣は京都へ報告に帰った(のち一〇月に生野で挙兵する)が、安積・池田・三浦はそのままとどまり挙兵に加わった。天誅組は一転して、逆賊となり、追討軍を差し向けられる運命となった。彼らは目的を放棄して解散することはせず、あくまでも初志貫徹と決したのである。行幸中止も君側の姦のしわざであり、姦は遠からず払われるべきものと信じていた。