政変後逆賊となった天誅組にとって、京都の動静がわからず、高取藩の向背もはっきりしない、また、いつ追討軍が来るとも知れぬ状況の中で、少しでも多くの義兵を集め、五条よりも守るに易い場所で陣容を整える必要があった。八月二〇日、本陣を天辻へ移動することにし、乾十郎を案内に、吉村寅太郎・保母健らを先発隊として出発させ、忠光の本隊も、いったん坂本村へ向かい、二一日、天辻へ引返し、鶴屋治兵衛方を本陣とした。五条の留守居役として池内蔵太・安積五郎・水郡善之祐・磯崎寛ら六十余名を残した。天辻では十津川の募兵にかかり、旧代官支配下の高一〇〇石につき一人の割で人足を徴したり、林豹吉郎らが木製の大砲一〇数挺をつくるなど、陣営の強化に力を入れた。
他方二一日夜、高野山へ上田宗児・土井佐之助・宮崎濤五郎ら三十余名を派遣した。一行は二二日夜到着し、金蔵院にて、五院の代表と会見し、強談判の末、二三日、高野山に叡慮の旨堅く守ること、万一朝廷の行幸の節は身代をなげうって守護すること、何事によらず差図に背かぬことなど全面的協力を約束させ、二四日下山した。
八月二二日、丹生川上神社の神官橋本若狭が他二名と共におとずれた。若狭はこの一帯に隠然たる影響力をもっており、以後郷民の募兵に着手し、追討軍との戦いに、重要な役割を果たすことになる。
さて吉村寅太郎らが尽力していた十津川募兵は、当初から予定したものではなかったうえに、二三日朝に発せられた檄文では、二四日までに一五才から五〇歳までの者は残らず、本陣へ出張するように、故なく遅れた者は厳科に処するという、性急かつごり押しの無理なものであった。十津川の内部事情も単純ではなく、いわゆる幕府派と朝廷派といったものが存在し、募兵に直ちに応じようとするものと、慎重にのぞむものがあったと思われるが、有無を言わせなかった。忠光に対して、勅命には従うが、先般五条代官を殺害したのは疑問であり、京都に伺いをたてたうえでお供したい、という意見を揚言した十津川の玉堀為之進と同調した河内の上田主殿が斬られた。上田は代々神戸藩士の出で河内鬼住村で代官を勤めた家柄、一六歳のとき江戸へ下り水戸藩邸に出入し藤田東湖に師事した理論家であった。集まってきた郷兵たちへの見せしめとして威圧効果十分であり、二五日朝には一〇〇〇名を越える十津川の農兵が天辻に集結した。本陣は大いに意気あがり、五条へ向かって進軍することになった。
挙兵期間中最大の勢力を整えるに至った天誅組はここで高取藩と一戦を交えることになる。すでに行幸の中止、忠光らの挙兵は勅命によるものではないという指令を受けていた高取藩は、約束していた米も上納せず、少ない藩士を補うため農民も動員して、戦闘準備を固めていた。天誅組と十津川兵合わせた一千余名は二六日朝高取城下に達した。軍師の安積五郎は「行軍六里を越え戦はざるは則ち兵法なり」と、不眠不休の行軍を続けてきた郷兵たちをもっての戦闘は無謀だとして、高取攻撃に反対した。池内蔵太・水郡善之祐もそれに同意したというが、血気にはやる忠光らに押し切られた。戦闘が始まったのは午前七時すぎであったが、戦いはまことにあっけなく天誅組側の惨敗に終った。
彼方にも備ありて、頻に大砲小砲打掛ける、味方の先手、鉄砲釣瓶かけに打放し敵勢両三人を斃しける、煙の下より、進め進めと大将軍下知し給へども一筋の小径にて、敵は小高き所にをり、進み兼ねて見えたる所に、敵より打出す破裂弾に驚き十津川農兵崩れ立ち、一人即死、一両人手を負ひ、我れ一にと退きけるを、頭の面々大に制すると雖も能はず、先手に進みし酒井伝次郎、甲を百目玉に打砕かれ、何分味方の足場悪しき故、備へ崩れて見えたりけり、敵頻に閧の声を揚げ、味方も閧を合わせて急におめいて二手に分れ、総軍五条へ静々と引揚げたり(半田門吉『大和日記』)
実際は、高取方の戦死はなし、天誅組方の戦死は七~九名以上、捕虜五十余名、多くの武器類を分捕られた。高取方は大砲小銃の火器に優れ、少勢ながら士気は高く、地の利を活用して作戦を誤らなかった。それに反し天誅組方の敗因は、大勢であれ、十津川兵は訓練もない烏合の衆で、敵よりも味方の散乱をくいとめることに必死で、全く統制がとれていなかったことに尽きる。けだし根本的には、脅迫による募兵で無理やり連れてきたところに原因がある。処罰されるのがこわくて来た者がほとんどで、捕虜となった郷兵たちが口ぐちに「元中山侍従などに全く欺罔致され」などと言っていたというから、全く戦闘力はなく、惨敗は当然というべきだろう。十津川兵はちりぢりとなって帰村した者が多く、五条方面へ落ちたものは二五〇~六〇名であった。
別動隊にあって敗軍を知り憤慨した吉村寅太郎は、背約のため不覚の敗北を取ったことを主脳部に詰問し、水郡もまた意見が用いられなかったことを難じた。吉村はその夜計二四名で夜襲を決意し、焼討ちのための枯草を背負って行ったが、薩摩というところで高取藩の警備兵と遭遇、吉村は藩士と激闘中、味方の銃弾が命中し重傷を負った。応急の手当をして一命をとりとめたが、この時吉村の傷を手術し銃弾をとり出したのが河内の長野一郎、本名吉井儀三である。彼は緒方洪庵の適塾で、西洋医学を学んだ俊才であった。しかし吉村は無理を重ねたため、その後破傷風に悪化し、最後にはほとんど身動きもできない状態になるのである。
この間、水郡善之祐は新兵を募り、弾薬を調達し、かつ狭山藩に食塩の輸送を催促するため、いったん河内へ帰ったものの、すでに自宅は尼崎・狭山両藩の兵に囲まれているとの情報に接し、やむなく五条へもどった。