天誅組が最初の重大な戦いに敗北し、天辻へ退くことを余儀なくされるという窮地にたたされているにもかかわらず、京都では事態はなおきわめて深刻なものとして考えられていた。それは第一に、この挙兵が京都の尊攘派と直接的関係をもたず、むしろ孤立しているにもかかわらず、朝廷・幕府は、三条らが忠光らと相通じていると信じこみ、尊攘派が次々と五条に集まり、早く討伐しなければ大変なことになると考えられたからである。第二に、討伐に差し向けられた諸藩の動きがきわめて緩慢で、いまだ何の戦果も上がっていないことであった。
代官所襲撃の夜からすでに急報が飛び、翌一八日に和歌山藩が出兵し、二一日に守護職から郡山藩へ、二三日に所司代から高取・柳本・芝村・新庄・小泉・柳生・田原本の七藩に出兵が命じられ、二四日には、守護職から和歌山・彦根両藩に、外様の津藩には勅命をもって討伐が命じられた。しかし、諸藩の動きは遅く、和歌山藩は二九日に五条へ、郡山藩は三〇日に下市へ、津藩は三〇日五条に着き、彦根藩は二八日に土佐に着くといった状況であった。そのうえ、和歌山の一隊は、桜井寺の縁の下に不審な者が二人いるらしく物騒だという理由で橋本へ引き上げてしまったり、吉野河畔に陣取って、敵もいない対岸の竹藪に発砲するなど、天誅組の力を過大評価した追討軍がかえっておじけづいている状態だった。こうした消極的な諸藩に対し九月一日朝廷は、中山が中将あるいは侍従を名乗っているのは全くの仮名であり、朝廷の命令した者ではないので、早くこれを鎮静すべしと督促し、九月四日、和歌山・津・彦根・郡山の四大藩に対し、すみやかに鎮圧すべき命が下った。こうしてようやく討伐軍が動き出したが、これ以外にも近隣の藩として、狭山・尼崎・岸和田・膳所なども命じられた。九月はじめの諸藩の派遣人数として、岸和田九〇〇人・和歌山一二〇〇人・尼崎四〇〇人・彦根二〇〇〇人・狭山一〇〇人・津三五〇〇人・郡山二〇〇〇人・小泉三〇〇人、計一万四〇〇人という数字が残っているが、相当な動員数といわなければならない。十津川兵を合わせても一〇〇〇名強の天誅組に対して、この物々しい動員は幕府・朝廷がいかにこれを重大視していたかが察せられる。伴林光平は「つらつら寄手の禄を数へ見るに、(略)総て十有余家にて、石数凡百五十万余、僅か百騎に足らぬ正義の浪士、…大丈夫の一大快事、何事かこれに如かん」といきまいている。
天誅組との直接の戦闘に当たったのは四大藩であったが、挙兵には河内から多数参加しており、それとの連絡を絶ち、大坂への脱出を阻止するため、大和・河内の国境をなす金剛山脈の各峠や南河内一帯の警備には大坂近辺の諸藩があてられた。千早峠は狭山藩六〇~七〇人、水越峠は尼崎藩三〇〇人、平石峠は岸和田藩一〇〇人余、竹之内峠は岸和田藩六〇〇人ほどが固めた。
南河内金剛山西麓一帯は尼崎・伯太・岸和田藩、富田林・長野方面は岸和田・狭山両藩が担当した。狭山藩は錦郡、岸和田藩は古市、大坂町奉行は西板持にそれぞれ本陣を置いている。八月二五日に岸和田藩の六〇〇人余が狭山に到着したのをはじめ、二八日、岸和田・狭山両藩が長野村の吉年・吉井宅や代官吉川治太夫宅を捜索し、大坂城代松平伊豆守の先手五〇人ほどが池尻村中岡方に着き、尼崎藩の約五〇〇人が平野に宿泊、二九日には岸和田勢七〇〇人が廿山を越え、大和へ向かうなど、動きは急であった。吉年米蔵は取調べをうけ事なきを得たものの、心配のため津氏と改称し、八月三一日難をさけて阿波の親戚へ身を寄せようとしたところ、貝塚で岸和田藩士に捕えられ、大坂町奉行所へ送られた。このことで代官吉川治太夫も不審をもたれ、九月二日、岸和田藩から呼び出され南加納村で取調べをうけた。翌日古市の本陣へ送られることになったが、治太夫は藩主に累の及ぶことを恐れ、途中、壷井村の茶店で休憩の際、便所で自刃した。短刀で喉を一突したらしい。ところが役人が死体を検査すると懐中から吉年米蔵の遺書が出てきたため、先の逮捕でうまく言いのがれ村預けとなっていた吉年は再び捕えられ、今度は京都六角の獄につながれた。元治元年(一八六四)五月四日獄死したとされている。なお治太夫自刃の知らせに驚いた神戸藩は吉川家を断絶し、長子徳太郎には浅井と改称させた。
水郡宅へは八月三〇日に大坂町奉行所与力らが、鉄砲・槍で武装した手勢三〇人ばかりを率いてものものしく捜査し、妻のむねが取調の上、村預けとなった。程度の差こそあれ河内勢メンバーのおのおのの家で同様の取調べが行われたと想像される。また岸和田藩が廿山の墓地に大砲を据え、甲田村を全部焼き払うといううわさに、村民全員が他所へ避難し、一週間ほどして板持の山に登ってみて甲田が残っていたので皆で帰宅したという大混乱の様子も伝えられている(「水郡家諸記録」)。このような諸藩の警備はおよそ九月二〇日ころまで続いた。