八月二六日の高取城攻撃失敗のあと、天誅組は天辻へ退き、二八日忠光らの本隊はさらに長殿へ南下し、吉村らも天辻へ引きあげ、天誅組は二拠点に分かれる形になった。諸藩の圧倒的な追討軍による包囲がすすみつつあったこの時期、天誅組にとって、大和行幸の実現や近隣藩の征服などもはや問題ではなく、いかにして包囲網を突破して、大和を脱出し、再挙を期するかが課題となった。ここで天誅組内部が今後の方向で二つの意見に分れた。一つは、忠光および松本・藤本ら本隊の「十津川山中へ引こもり、機を見て紀州新宮表を打破り、船にて四国九州へ渡り、再び義兵を募らん」とする南進論で、十津川の野崎主計が、郷人は一致して郷土を守る気になれば半年は持ちこたえられると建議したことに依拠している。もう一つは、吉村・安積・水郡らの、天の川辻の要害を守り、機をみて五条か御所に出て大坂より中国・四国に出て再挙をはかるという北進論であり、どちらかといえば主戦論である。両論とも強力な警備網を知らない絶望的なものであり、どっちもどっちの感があるが、重要な点は、ここで統率を乱してしまった主脳部の指導力の欠如であり、実態としてすでに天誅組は分裂してしまっていることである。
二九日、忠光は天辻に残った吉村らに本陣へもどるよう命じたが、吉村らは応じなかった。忠光らは翌三〇日長殿をたち、九月二日には武蔵まで達した。本隊には浪士四〇名、従者五〇名余り、天辻に留まった者は浪士四〇名・従者一五〇~六〇名余りといわれ、河内勢一一名・土佐勢一〇名、ほか橋本若狭・安積五郎なども含まれている。
しかしその後天辻の吉村らは、大日川・北曽木の防備を固め、九月一日、恋野で和歌山藩兵を焼討ちして大いに気勢をあげた。栃原・樺ノ木・北曽木・大日川の防備も充実したと聞き、忠光の本隊も引きかえし、吉村らと共に五条方面を突破して大坂に向うことに軍議を変更、九月六日再び天辻に帰陣し、両者合流した。天誅組は再度十津川郷で募兵し、五条への進撃を企て、七日北曽木へ本陣を移そうとしたが藤堂勢の来襲にあい、大日川の戦いとなり、本陣を白銀嶽へ移した。八日、彦根勢は栃原・樺ノ木を、郡山勢も広橋を攻撃した。九日、彦根勢は白銀嶽にせまり、吉田重蔵・水郡らは大いに苦戦したが、反対に同日夜、下市の彦根陣営に火を放ち、大混乱を与えることに成功した。しかし大日川から下市の焼討ちまで、一定の戦果はあっても、総体としてみれば天誅組にとって先細りは目に見えていた。また五条方面に陣していた藤堂勢が大日川方面に寄せるとの飛報に、退路を断たれることを心配した忠光らが、急に本陣を大日川に移すことに決し、前線の同志に告げずに白銀嶽を引き払ってしまった。さらに、大日川に諸兵をまとめようとしたものの、数日来の戦いで弾薬も消耗し、一戦も覚束なきに至ったため、またまた軍議を変更、十津川郷に籠居の覚悟で、一一日天辻に引き上げることになる。このことが天誅組の決定的分裂の引き金となった。すなわち河内勢の脱退である。