白銀嶽の前線で苦闘を続けていた水郡ら河内勢が、一〇日本陣に帰ってみると忠光らは大日川へ去ったあと、一一日大日川に至れば、すでに忠光らは天辻へ去ってしまっていた。この間忠光らから何の連絡もなかったことは、水郡らを大いに失望させた。『水郡長雄伝』によると善之祐は「我軍の気勢日々萎縮す。其状恰も釜中の魚の如し、宜しく釜蓋全く蔽はれざるに先だち奮躍突進一条の血路を開き重囲を出て、更に地を求めて潜匿(せんとく)し時を待って再挙の策を立つべし。若し戦ひ勝たず血路を開く能はずば、屍を曠野に晒(さら)さんのみ」とし、自分に同感してくれるのなら、共に熊野から船で中国へ行こうと同志たちを説得した。そして忠光に送った訣別の辞は次のようなものである。
僕等一旦公を仰ぎて盟主となし、朝家の為に相努力せんことを約せり。然るに形勢一変忠邪名を異にし、今や大鳥逆まに迎ふるの時運に際会す。爰を以て屡々建策するあるも終に用ひられず、徒(いたずら)に手を束ねて敗を待つものの如し。僕等思惟(しい)すらく天下のこと一朝にして定むべきにあらず。故に暫らく回天の気運を別天地に待ち以て大いに為す処あらん。
同時に和田村滞陣中の安積五郎・長野一郎・森元伝兵衛にも書を送り同行を求めた。しかし安積はこれを不可とし、長野・森元を思いとどまらせ、江頭(えがしら)種八を水郡のもとへ遣わし、本隊との分離は非計であることを説いたが、水郡はきかなかった。江頭がその旨安積に告げると、安積は笑って「将、将たらざるが故に士、士たらず、水郡の去る怨むところなし」と言ったという。脱退した河内勢は、水郡善之祐・英太郎父子・田中楠之助・鳴川清三郎・東条昇之助・辻幾之助・浦田弁蔵・仲村徳次郎・和田佐市と吉田重蔵(筑前)・保母健(肥前)・石川一(因幡)・原田亀太郎(備中)の浪士一三名および案内人の十津川人三名と人足一名の計一七名であった。
彼らは十津川をへて上湯ノ川に出て、同志田中主馬造の家に泊った。ところが天誅組が逆賊となった旨の中川宮の令旨が十津川にも達しており、郷士たちはすでに天誅組から離反していた。とくに主馬造の弟勇之進は全く敵対的であった。九月一七日勇之進らの案内で紀州牟婁(むろ)郡近露村に出て、別れた後、警備兵から不意の発砲をうけ、来た道をあわててもどったが、その際中村・東条が行方不明になった。また二〇日、勇之進の「厚意」で河俟(かわまた)村の小屋で山猪の馳走を振る舞われ、快飲飽食して熟睡中、夜襲をうけ(『水郡長雄伝』ではしかけられた火薬が爆発したとされている)、吉田・辻・英太郎らが火傷を負い、鳴川・浦田も行方不明になった。足痛のため主馬造宅に留まった和田佐市は十津川人に囲まれ殺された。こうして死線を越えた一行八名は紀州菅野に着いたが、またも十津川兵の銃撃にあい、全く進退きわまった。吉田・辻両人が重傷でそれ以上歩行困難となり自刃を請うたところで善之助は二人を止め、和歌山藩に自首することを決意した。九月二二日和歌山藩の吉本伍助は八人を百姓喜助の米倉(いわゆる天誅倉)に幽閉し、二四日、一行は和歌山に送られ審問をうけた。一〇月三日京都六角の獄に護送されたが、英太郎のみは年少のゆえをもって郷里に帰された。なお行方不明となった四人も捕われ、同様に獄へ送られた。本隊と行動をともにした河内出身者は、長野一郎・森元伝兵衛・秦将蔵・武林八郎・内田耕平・三浦主馬らであった。彼らの潰滅も時間の問題であった。