天誅組浪士の挙兵中の死者は戦死・自殺・病気などを含めて二一名にのぼった。捕われた人々は、京都の六角の獄につながれ、打首の刑が確定、元治元年二月一六日、一九人が処刑された。河内の関係者では、長野一郎・伴林光平がいる。ついで同年七月二〇日、禁門の変の混乱に乗じて、自首して縛についた者らを中心に一四名、河内勢では水郡善之祐・辻幾之助・森元伝兵衛・田中楠之助、それに加え平野国臣ら生野の変の関係者などあわせて三三名が処刑された。火が堀川以西に及んだ場合に斬るとの訓令を無視しての暴挙であり、いちいち処刑するのは煩わしいので獄舎の外から長槍で突き、あたるに任せて刺殺したともいわれる。二月と七月の両度に死んだ天誅組浪士は三三名である。生き残った二十数名も、長州へ奔(はし)った中山忠光が同年一一月五日、いわゆる俗論派によって暗殺されたのをはじめ、捕えられたり、禁門の変や鳥羽伏見戦争での戦死などで、明治維新まで生きのびた者は少ない。例外的に後半生を栄光につつまれる幸運児は、平岡鳩平(北畠治房)と伊吹周吉の二名だけである。
八月一八日のクーデターから翌年の禁門の変、それに続く第一次長州征伐と、尊攘討幕派にとっては冬の時代がやってくる。明治維新までにはなお五年の歳月が必要であり、残された者たちにも苦難の日々であった。慶応三年(一八六七)一二月、鷲尾侍従が同志田中光顕・香川敬三らと高野山で挙兵した。世人はこれを天誅組の再来といった。香川の使者葛見竜五郎が水郡家を訪ね、英太郎に父の遺志を継いで参加することを求めた。翌年一月四日再度の勧誘に、英太郎は水郡新三郎(善之祐の末弟)・鳴川清三郎・浦田弁蔵・東条庄之助、辻本宇吉(以上四名は天誅組に参加)、長野正一郎(長野一郎の次兄)ら十余名と共に紀見峠へ向かった。この隊は鷲尾により遊撃隊と命名された。ときすでに、鳥羽伏見の戦いで、旧幕府側が敗北し、大坂城も陥落した。鷲尾軍は無人の地を行くごとく大坂に入り、一五日京都に着、三月には親兵に編入された。
水郡善之祐ら処刑された者らの遺骸の所在は明治四〇年までわからず、京都二条西刑場で乱暴に埋められ、後上京区の竹林寺に移されたことが判明したが、それぞれ誰の首であるのかわからずじまいである。残されたのは借金の山であった。善之祐の弟謙三郎は明治二年、長野代官所に拝借金二一八両の二〇年賦返済を願い出ているし、浦田弁蔵も帰村後家計の悪化で零落し、住居も転々とする。三浦主馬の帰村後の消息は一切分からない。明治六年息子の駒四郎が貧困にて石川堤で死んだとの記録が残されている。裕福な農民層の多かった彼らは、利用された感がある。もちろんそのような意識は彼らにはみじんもない。
天誅組はもろくも敗れ去った。真木和泉の言葉どおり、天誅組の敗北は、後の討幕派に、幕府を倒すためには藩の軍事力に依拠しなければならないという軍事的指針と、天皇(玉)を手中におさめることの重要性、政治的リアリズムを教えた。彼らの流された血と多大な犠牲の上に明治国家は聳立(しょうりつ)する。