嘉永七年(一八五四)一一月二七日、安政と改元された。改元の理由は、内裏炎上、異国船渡来、大地震などのできごとが引き続いて発生したためであった。異国船に関していえば、前年六月浦賀に来航した米国使節ペリーの波紋もさることながら、嘉永七年九月には、大坂にも、千島・樺太の国境確定と通商問題をめぐる日ロ交渉の早期妥結を求めて、ロシア艦ジアナ号が来航した。このとき、大坂市中とその周辺は大混乱に陥った。
また、同年の地震は、二度にわたって起こった。まず第一回目は、六月一五日から一六日にかけて断続的に大きな揺れがあり、余震が長く続いた。伊賀を震源地とする内陸性地震で、マグニチュード六・九と推定されている。さらに、一一月四日・五日の両日には、推定マグニチュード八・四の巨大地震が発生した。これは、近畿・東海・西国にわたる海洋性地震で、大坂市中では津波のため死者が多く出たが、富田林地方でも、家屋を中心に被害は甚大であった。通常、これらの天変地異は、天罰あるいは天譴(てんけん)として受け止められることが多いが、この地震の場合も、人心を大いに動揺させ、乱世の到来を感じさせるものであった。
このような一連の変異が契機となって、年号の改元が行われたわけである。「安政」という年号の出典は、唐代、群書の中から治政に役立つと思われる項目を抜粋・編纂した『群書治要』にある「庶人安政、然後君子安位矣」であった。そして、幕府にとって文字どおり「安政・安位」の世となるように、老中阿部正弘によって幕政改革が実施された。その内容は、軍制改革・軍備拡充・人材登用などが中心であったが、同時に、財政難を緩和するための年貢増徴策や農村の基盤整備策も展開された。しかし、正弘が安政四年に病死し、幕政改革は十分な成果を挙げないままに終わった。
諸藩においても、財政窮乏化が著しく、農村再興策は焦眉の急であった。村々では、次に述べるとおり、天保改革のときと同じように風俗矯正の倹約や物価引き下げの取締の試みが行われたが、気候不順による荒凶が頻発したこともあってその効果はほとんど見られず、幕藩体制の動揺に拍車が加えられることとなった。