倹約令や取締令の多くは、個別領主から村単位あるいは組合村々に対して出されたが、石川・錦部両郡においては、安政四年(一八五七)九月、村々によって「郡中取締書」が作成された(喜志土井家文書、近世Ⅲの一六)。幕末期、石川郡の村数は四八カ村、錦部郡のそれは五〇カ村であったが、その領主支配はきわめて錯綜し、一カ村が複数の領主によって支配される入組支配も多く見られた。所領の分布状況は、表130のとおりである。石川郡では、幕府領の代官支配所が過半を占める。これに常陸国下館藩石川若狭守の所領を加えると全体の八〇%弱に達し、残りの二〇%が、相模国小田原藩・近江国膳所藩の大名領、旗本知行所、寺領となっている。錦部郡では、膳所藩本多下総守の所領が全体の三分の一強を占め、残りは、幕府領、河内国狭山藩・伊勢国神戸藩の大名領、旗本知行所、寺領などに細分化されている。
区分 | 石川郡(比率) | 錦部郡(比率) | ||
---|---|---|---|---|
石 | % | 石 | % | |
幕府領 | 12,989.153 | (51.6) | 1,024.011 | (5.6) |
小田原藩大久保加賀守領 | 1,708.646 | (6.8) | ||
下館藩石川若狭守領 | 6,915.527 | (27.5) | ||
膳所藩本多下総守領 | 1,008.297 | (4.0) | 6,326.774 | (34.8) |
神戸藩本多伊予守領 | 3,267.052 | (17.9) | ||
狭山藩北条美濃守領 | 1,951.056 | (10.7) | ||
旗本石川槙之助知行 | 2,471.714 | (9.8) | ||
〃 甲斐庄喜右衛門知行 | 2,506.266 | (13.8) | ||
〃 水野監物知行 | 1,160.946 | (6.4) | ||
〃 小出伊織知行 | 1,020.010 | (5.6) | ||
〃 三好時之助知行 | 617.890 | (3.4) | ||
叡福寺領 | 70.570 | (0.3) | ||
観心寺領 | 25.005 | (0.1) | ||
金剛寺領 | 307.000 | (1.7) | ||
合計 | 25,163.907 | (100.0) | 18,206.010 | (100.0) |
注)井上正雄『大阪府全志』巻之四により作成。
このような所領配置のもとでは、郡は行政単位としての機能を持たず、単なる地理上の名称でしかないのが普通であった。しかし、近世後期の石川・錦部両郡においては、一カ村あるいは組合村々の申合せでは効果が期待できない事柄に関しては、所領ごとに惣代が出て相談を行い、領主支配を異にする村々の間で申合せが行われていた。
例えば、石川郡では、文政二年(一八一九)一一月に、諸色値段の引き下げが取り決められている(近世Ⅲの一一)。これは、同年七月、幕府が大目付に命じて、諸色値段を下値の米価に準じて引き下げるよう諸国に触れ出させたのに呼応するものであったが(『御触書天保集成』下)、「一村限取締候而者、諸事区々相成、自然差支候儀も可有之哉ニ付」と、郡中申し合わせの理由が記されている。また、錦部郡においても、寛政五年(一七九三)および文化一〇年(一八一三)に奉公人の給銀規制、文政二年(一八一九)には石川郡と同一内容の諸色値段の引き下げ、天保四年(一八三三)には倹約取り締まりなどが、「郡中定」として取り決められていた(近世Ⅲの一二、『河内長野市史』六・七)。
安政四年の郡中取締も、「近年度々旱魃ニ而、百姓一統及困窮ニ候ニ付」、郡単位で取り決められたのである。議定の中心は、高騰しつつある諸職人の賃銀を広域的に規制しようとするものであった。すなわち、その内容は以下のとおりである。
(1) 大工の賃銀は、かつて一人一日につき銀二匁六分と定められていたが、安政三年から銀四分増しとなり、銀三匁となっている。これは、大工が京都内裏の造営に動員されて入用がかさんだためであるが、内裏造営という稀にしかないことを理由に賃銀が上積みされては、諸職人の賃銀にも影響するので、今後は、従来のとおり銀二匁六分とする。もし、この賃銀に異議を申し立てたり、熱心に働かないような大工がいれば、遠慮なく断り、ほかの大工を雇い入れる。
(2) 藁屋根葺きの賃銀は、一人一日につき銀二匁であったが、近年は銀二匁五分になっている。今後は、これも従来どおり銀二匁とする。
(3) 瓦屋根葺きの賃銀は、一人一日につき銀三匁であるのを銀二匁五分に引き下げる。
(4) 左官の賃銀も、所によっては増銀が行われているが、これも、従来のとおり銀二匁七分とする。
(5) 綿打ちの賃銀は、これまでたびたび値上がりしたうえ、近ごろの銭相場の上昇で極めて高値になっているので、今後は、一斤につき銭一〇文とする。
(6) 籾摺り臼は、従来、伊賀国の職人がやって来て作り、これが伊賀臼と称されて多く用いられていた。ところが近年は、当地の職人が、臼屋の株仲間が結成されたなどといって、伊賀国の職人を締め出そうとしている。不都合な籾摺り臼を使用することとなって米折れ・砕けが出ると、年貢米に支障が出るので、職人が選択できなくなることは問題である。伊賀・当地の別なく、これまでどおりの職人に作らせる。
(7) 桶樽屋は、竹の高値を理由に輪替賃を再三にわたって引き上げてきた。今後は、桶・担桶とも輪一筋につき銭六文とし、日雇賃は銀二匁とする。
(8) 農鍛冶屋は、鍬の焼賃値上げを申し合わせて実施してきた。値上げの理由は、鉄が高値になったからということであるが、焼賃の値上げ幅はそれを上回っている。今後は、鍬の焼賃を銀一匁三分とし、ほかの道具類もこれに準じて引き下げる。
(9) 木挽職の賃銀も、増銀が行われている。今後は、大工と同じく、一人一日につき銀二匁六分とする。
(10) 奉公人は、請状に奥印のない者を召し抱えない。
(11) 近ごろ、浪人・雲助・旅僧・修業者らが村々に入り込み、家々を回って食事や止宿を乞う光景がまま見受けられる。なかには、木賃宿を営む者がいる村もあるが、浪人らがそこに長期逗留して徘徊し、村々は大変迷惑しているので、今後、木賃宿の営業は禁止する。ただし、高野街道沿いの三日市村・上田村は例外とするが、この両村においても、浪人らの宿泊は「通り抜一宿」とし、それ以上の逗留は認めない。
以上のとおり、大工・屋根葺き・左官・綿打ち・桶樽屋・農鍛冶屋・木挽職などの賃銀引下げと、籾摺り臼職人・奉公人・廻村者の規制について、取決めが行われた。この取締書は、所領ごとに選ばれ、協議に加わって連印した惣代から村々に写書が回され、「小前末々迄申聞、急度相守可申」ものとされた。いずれも、一カ村限りの申合せでは実効力を持たない事柄であり、郡単位で取締りが試みられたのは、一応合理性を持っていた。しかし、階層分化の結果村々に数多く存在した職人・商人との対立関係をはらみ、また、幕末の混乱期に数を増しつつあった浪人らの廻村者を村々の疲弊を理由に締め出そうとする内容であったから、このような取締書が効果を挙げることは、きわめて困難であったと考えられる。