幕末期も、災害や気候不順の年が続いたうえ、米価を初めとする諸色値段の高騰が見られ、村々の困窮は一層増大した。例えば、安政六年(一八五九)には、七月から九月にかけてコレラが大流行するなか、八月中旬、大風雨・洪水によって綿作が被害を受け、秋には稲作が虫付になった(彼方中野家文書「綿作并粒毛坪害蚊御赦米割方帳」)。
翌万延元年も、まず裏作の麦作・菜種作が「古今稀成大凶作」であった。ことに麦は「百姓第一之夫食」であり、価格も一石当たり銀一六〇目余りにまで高騰したため、その凶作は農民生活に大きな打撃を与えた。五月以降は長雨による冷夏の日々が続いて、稲作は虫付・枯穂・枯葉がおびただしく、綿作も実入りが薄く、ともに大凶作となった(東板持石田家文書「乍恐以書付御嘆願奉申上候」)。
河内国の膳所藩領村々は、同年九月、彼方村庄屋と下岩瀬村(現河内長野市)庄屋を惣代として年貢延納を訴願し、河内国からの年貢収納米のほぼ四分の一に当たる一〇〇〇石が翌年六月まで延納されることとなった。残りの年貢を納めて越年したものの、年末に一石銀二〇〇目であった米価が、年が明けると二五〇目へと急騰し、「小前凌方六ケ敷」事態になった。このため、翌文久元年三月には、錦部・石川両郡の膳所藩領村々における「極難之者」七〇二人と「買喰難渋之者」九三〇人を書き上げて、五月の裏作取り入れ期までの間の夫食米を求める訴願が行われ、これも聞き届けられた。彼方村は極難の者が七〇人、買喰難渋の者が八三人であり、佐備村は前者が六九人、後者が一〇六人を数えた。夫食米給付の方法は、前年延納が認められた年貢米一〇〇〇石のうちから、極難の者には一日一合の割合で施与して露命をつながせ、買喰難渋の者には廉価販売を行って五月末に代銀を回収するものであった(彼方中野家文書「御領分嘆願之扣」)。
万延元年、旗本小出順之助知行所の錦部郡板持村においても、嘆願の結果、用捨米として五〇石が下付された。しかし、同村に出作地を保有していた石川郡板持村の農民は、同年一二月、小出役所に対して「出作之もの共、此侭ニ而ハ迚も御皆済茂出来不申、御皆済不仕候半而者、今日より所之水も相呑メ不申、何共歎ケ敷次第」であるとして、年貢銀納の石代値段の引き下げ、ないしは四分方銀納分の無利息一〇年賦の納入を願い出た(東板持石田家文書「乍恐以書付御嘆願奉申上候」)。これは、錦部郡板持村の村役人を経由せず、石原代官役所の添翰をもって直接行われた異例の訴願であった。
その石川郡板持村では、文久元年二月、「極必至難渋之飢人」に米の救恤が行われた。施行の対象になったのは、村民二八六人のほぼ一四%に相当する四〇人(八戸)であった。村役人ら八人が米二石四斗を拠出し、これでもって一人一日一合ずつ、二月一日から三月末日まで施行が実施された。このような規模の小さい施行でも、代官役所への届け出が必要とされたが、施行を受けた農民からは、次のとおり、いささか屈辱的な文言の一札が徴された(同「覚」)。
差入申一札之事
一当年米穀稀成高直ニ付、私共家内既ニ可及飢渇之処、前書身元之御衆中より御仁心を以御救与して前書之通施行被為成下頂戴仕、誠ニ御仁心之御願ニ而露命を繋、難有仕合ニ御座候、御仁恩之程永世忘却不仕、子孫至迄申伝ヘ置、急度御恩相弁可申候、然ル上ハ施行被成下候御家江ハ何事ニ不寄一番ニ馳付、急度御恩報可申候、又者御用事有之候節ハ、分限ニ応し候義者急度相勤メ可申候義ハ勿論、百姓繁多之砌ニ者、御沙汰次第被日雇ニ茂早速参り手支無之様可致候、為其一札差入申処如件
文久元酉年四月