文久三年(一八六三)天誅組河内勢の挙兵が無残な結果に終わったことは、富田林地方の村々に緊迫した空気をもたらした。京都・大坂では、尊攘派の急進的な志士による天誅が頻発していた。尊攘派は、元治元年(一八六四)七月禁門の変で壊滅的な打撃を受けたが、民衆の間では、幕府に対する反感と長州に対する同情と期待がしだいに膨らんでいった。
慶応元年(一八六五)五月、将軍徳川家茂は、大坂城に入り、ここを第二次長州戦争の大本営とした。大坂には、家茂に従って多数の大名・旗本が集結し、その一〇万を超える軍勢が市中をうずめた。そして、大軍の大坂滞在が長引くにつれて、民心の離反が明らかになり、幕府への不満が表面化していった。その主な原因は、諸藩兵の物資調達、内戦開始の不安感などによって、米をはじめとする諸商品の価格が一層高騰したことにあった。とりわけ米価は、翌二年に入ると、異常なほどに上昇した。
米価の異常な上昇は、都市と村々の下層民に大きな打撃を与え、一触即発といえるほどの険悪な状況を醸し出した。慶応二年五月一日の夜、摂津国武庫郡西宮町(現西宮市)において、貧家の女房らが米屋を一軒ずつ回って米の安売りを求める光景が見られた。このような米の安売りを要求する行動はただちに拡大することとなり、三日には二〇〇〇人ほどが米屋に押しかけ、武士と衝突して切りつけられる騒ぎとなった。その後、さらに騒動は、周辺の同郡今津(現西宮市)、菟原郡御影(うばらぐんみかげ)・魚崎・住吉(現神戸市)、八部郡神戸・兵庫津(同上)などの村々にも伝播し、安売りに応じない米屋は打ちこわしの対象になった(『兵庫県史』五)。
五月一〇日、大坂町奉行所は口達を出し、「過日西宮・兵庫津あたりで米価引き下げに事を寄せ多人数が集まって人家を打ちこわす騒ぎがあり、不法を働いた者をおいおい召し捕らえているが、もし、市中で同じような心得違いの者が出れば、厳重に沙汰する」と警告した(『大阪編年史』二四)。ところが、同日夜、豊島郡池田村(現池田市)で打ちこわしが発生し、一四日になると、西成郡難波村(現大阪市)において、雨のなか早朝から氏神境内に集まった窮民らが、一升につき銭八五〇文にまで高騰していた米を銭二〇〇文の安値で買い取る「押買」をすることを申し合わせ、行動を開始した。この騒ぎは、即座に大坂市中全域と近在の西成郡木津・勝間・九条・伝法、東成郡玉造・天王寺などの村々に拡大した。
いずれも、竹槍を持ち、竹筒を吹いて米屋を駆け回ったが、無秩序な略奪を目的とした行動ではなく、安値購入の押買が強要されたところに特徴があった。それが拒否されたり、制止されたり、あるいは店の戸を閉じていたときにだけ、米や雑穀が持ち去られ、衣類・道具類が取り散らかされたのである(『大阪府史』七)。
また、その底流には幕府に対する批判があった。大坂では「市中中分以下之町人、男女之差別なく」(『浪華形勢雑記』)、あるいは「市中裏屋・小屋の難渋者を始、今日悠々敷暮居候迄」(『慶応丙寅雑記』)といわれたほどに、押買に参加した階層は広範であった。大坂留守居の薩摩藩士木場伝内は、打ちこわしのかどで召し捕らえられた者が、吟味の際、「打ちこわしの張本人は大坂城にいる将軍である」と申し立てたと、大久保一蔵(利通)に報告している。この種の巷説はほかにも多く流布され、逮捕者のなかには、牢屋は食事付きで極楽であるとか、謀反の筆頭は先年桜田門外で暗殺された井伊直弼、次は幕府・大名の外国交易であると述べた者がいると伝えられた。その後、打ちこわしは、西成郡今在家・中在家(現大阪市)、住吉郡住吉(同上)など、大坂三郷の南に位置する村々に波及した。いささか誇張された表現ではあるが、このときの騒動は、「大坂十里四方一揆ならざるはなし」とか「打ちこわしのトキの声、大坂十里四方をおおうたり」といわれたほどであった。
富田林村の喜志屋藤兵衛は、「村方見聞記」において、この慶応二年の状況を「所々方々摂河泉播和州共ニ一ケ村も騒キ不申在所無之、大カ小カ皆相寄、何ヤゴテゴテ致し候」と記している(『富田林市史研究紀要』二)。無高層を多く抱えていた富田林村も例外でなく、米価の異常な高騰は、村民の多くにことのほか深刻な影響をもたらしていた。このため富田林村においても、すぐ後に述べるとおり徒党騒ぎが発生したが、これは発生日が早いところに特徴があり、西宮町に端を発して、灘目一帯から池田村を経て大坂三郷とその周辺村々に波及した打ちこわしの流れとは無関係に、個別に勃発したものであった。