富田林村では、慶応二年(一八六六)正月・二月に一石銀四〇〇目から五〇〇目であった米価が、三月中旬から上り始め、四月上旬には銀七三〇目となり、さらに下旬には銀八〇〇目から九〇〇目にまで上昇した。村内の米屋における白米の売値は、一升につき銀九匁九分というかつてない高値に達した。そこで、三月下旬ごろから、郷蔵に積み立ててある夫食米(ふじきまい)の貸与または安値での購入を求める声が、小前(下層民)の間に聞かれるようになった(『富田林市史研究紀要』二、以下同じ)。
郷蔵における夫食米とは、近世後期、幕府財政の窮乏化に対応して実施されていた郷村貯穀のことである。すなわち、救荒対策として、農民に一定の割合で出穀させ、それを村内の郷蔵に貯蔵させる方式であった。富田林村において、いつこれが開始されたのかは明らかでないが、当初、貯夫食米の請高は、村民を二〇〇〇人と想定して、一人当たり三合ずつ合計六〇〇石であった。その後、二〇〇石は「永納」となって金二〇〇両が上納され、残り四〇〇石を郷蔵に積み置くこととなったが、さらに、石原清左衛門代官支配のとき、七七石二斗七升八合を金七七両一分二朱で永納、二三四石を上層住民の「手囲米」とする出願が行われ、郷蔵貯蔵米は八八石七斗二升二合に削減された。しかし、これが規定どおりに積み置かれたことはなかったらしく、安政五年(一八五八)九月、前庄屋が現庄屋に引き継いだときには、同じ代官支配所の安宿郡国分村(現柏原市)の「預り籾」八五石九斗余を合わせて、合計一〇〇石の米が積み立てられていた。
村内には、「大組衆」と呼ばれる一八軒の有力住民の組織があり(表131)、村役人とともに村政および各町の運営に当たっていた。夫食米の貸与または安値販売を求める小前住民の要求に対して、当初、彼らの現状認識はきわめて甘く「近来ハ世上一同ニ驕奢増長之時節故、一向重百姓も不得心、町々世話人も聞流位之事」であった。四月二一日、庄屋宅において大組衆の集会が開かれたときも、欠席者が多いなかで、いまだ救恤を行うべき時期ではないとの結論が出され、小前住民に対しては、夫食を願い出る場合は、困窮人をよく調査したうえ行うよう指示がなされたにとどまった。
杉山 | 長左衛門 |
黒山屋 | 意磨 |
〃 | とく |
佐渡屋 | 徳兵衛 |
〃 | 徳平 |
〃 | 徳次郎 |
葛原 | 茂兵衛 |
〃 | 三次郎 |
岩瀬屋 | 伊兵衛 |
〃 | 伊助 |
* 〃 | 伊六 |
*喜志屋 | 藤兵衛 |
*新堂屋 | 五郎兵衛 |
〃 | 安兵衛 |
平尾屋 | 森太郎 |
別井屋 | 忠兵衛 |
半次郎 | |
坂田屋 | 万右衛門 |
注1) *印は百姓代。
2)『富田林市史研究紀要』2により作成。
大組衆の間では、このとき郷蔵に米がないことは周知の事実であった。貯夫食米は年を期して新米に詰め替える方法が取られていたが、元治元年(一八六四)九月、庄屋によって売却されたままで、新米は購入されず、その代銀は使い込まれていたのである。四月下旬、米価の上昇が一層激しくなり、二七日には、村内の一一軒の米屋が「米売切」と称して一斉に販売を停止したのを契機に、小前住民の動きがにわかに慌ただしくなった。同日夕方、興正寺別院の門前に集まった村民の間で、五月四日に、夫食米要求と庄屋糾弾の集会である「惣大寄」を開くことが取り決められた。その日が設定されたのは、庄屋が近江国甲賀郡信楽にある幕府代官多羅尾主税の役所から、大組衆の一人で百姓代を勤める木綿問屋喜志屋藤兵衛も近江国の商用から、ともに五月三日に帰村する予定であったためである。
五月四日の早朝から、大組衆と年寄杉田善兵衛は庄屋宅に集まって対応策を協議し、町々の世話人に惣大寄を中止するよう申し入れたが、もとより聞き入れられることはなかった。夕方から興正寺別院の前に集まり始めた村民は、その後しだいに数を増し、夜を徹しての惣大寄となった。夜通し家々を起こしに回って、「皆々御坊ヘ寄レ寄レ」と決起が呼びかけられ、五〇〇人ほどが集まった。そして、人々は無理やり別院の門を開けて境内に入り込み、本堂・客殿・茶所・広庭にあふれた。そこでは、頭取の者数人が選ばれるとともに、「富田林村中」と記した買物帳が作られ、米・酒・柴薪などを調達し、かがり火を焚いて炊き出しが始められた。米・酒の調達は、買物帳を持って一軒ずつ村内の米屋と酒屋を回り、「もし応じなければ、その家から毀つ」などといって、安売りを強要しつつ行われた。境内は、ほら貝を吹き、早鐘・太鼓を打って気勢をあげる人々で埋めつくされ、鯨波地を動かすような騒然とした状況が一晩中続いた。
五日の早朝、大組衆らは町々の世話人を介して小前住民との接触を試みた。世話人らは、小前住民の要求は郷蔵に夫食米一〇〇石を積み立てることであり、もし一合でも不足すれば庄屋宅が打ちこわされると伝えた。庄屋から「夫食帳面」の借覧を求めたところ、元治元年の売却代銀は一四貫九五〇目余りであることが判明した。この銀高で新米を買い入れ、翌慶応元年、再度古米売却・新米購入の操作を繰り返しても、とうてい石高は一〇〇石に達していないと予想されたが、頭取らは、米を毎年詰め替えておれば価格上昇によって石高は増えていたはずであるとして、前庄屋から引き継いだ一〇〇石に固執した。小前住民の要求は、ただちに庄屋に伝えられたが、狼狽した庄屋からは返答がなく、いたずらに時が過ぎた。
午後二時ごろからは、早鐘・太鼓・鯨波が一層激しくなり、村中を二〇人ほどが走り回って、いまにも庄屋宅の打ちこわしが始まる勢いになった。また、見物人も数を増し、「無頼之者、無宿もの、或ハ博奕師抔、一度壊チ始有レハ、供々致し度様子」も見受けられた。日没までに群衆を解散させなければ大事になることが予想された。そこで、大組衆らは庄屋と相談のうえ、一〇日までに米一〇〇石を郷蔵に積み立てることとし、その旨世話人に伝え、解散するよう要請した。しかし、頭取からの回答は、「此節柄慥成事見すは、不引取」ということであった。結局、一〇〇石もの米をただちに用意することは事実上不可能であったため、本日のところは、大組衆らがその代金九〇〇両を立て替え、それを別院に持参することとなった。立替金は、村役人(年寄・百姓代)三軒が四五〇両、大組衆が二五〇両、庄屋の親類が二五〇両を負担した。一歩銀三〇〇両と二歩判六〇〇両の大金が箱に入れられ別院に搬入されたのは、すでに夕飯時を過ぎていた。別院や辻々に集まった者は八〇〇人ほどにふくれあがり、境内では、昨夜と同じく、早鐘・太鼓・鯨波が響くなか、かがり火を焚いて炊き出しが行われていたが、庄屋宅にも多人数が押しかけていた。そこでは、門前でかがり火が焚かれ、門の戸やくぐり戸がはずされ、無宿者が加勢して投石用の石も用意されるなど、極めて緊迫した状況になっていた。
別院に運び込まれた金九〇〇両は、人々が見守るなか、本堂の高座の上に並べられた。即座に、庄屋宅の打ちこわしを制するために人が遣わされ、頭取の一人が、大組衆らに「然ハ金子預りましょふ」といい、周囲の小前住民に対して、「皆能聞ケヨ、弥十日迄ニ米百石郷蔵積テ下さる、引取レヨ、其外ニ願ハ無イカ」と問いかけると、あいついで庄屋を糾弾する声が出され、「サア退役退役と堂中鳴る如く」なった。小前住民らは、協議のうえ、この金子を大組衆の杉山長左衛門と黒山屋意磨に預けることとし、①このたびの騒動の雑用はすべて庄屋の負担とし、②庄屋は直ちに退役し、③子孫に至るまで村役につかない旨の一札を取る、この三項目を要求した。
大組衆らは、これを庄屋に伝えたが、庄屋は、「宵の騒動ニてフナフナ、家内ハ狼狽ウロウロニ見ヘ、目も当テラレス、気毒」なありさまで、三項目の要求を全面的に受け入れる意向を示した。同情した大組衆らは、別院に戻って、③の一札については、年寄・百姓代の貰いとするよう小前住民を説得し、今後村役人の選出に当たっては、無高層を含む全村民による入札とすることを条件に、了解を取りつけた。これで、前夜以来の惣大寄は解散となり、人々は別院から順次引きあげていった。