翌五月六日、小前住民は、興正寺別院に二〇〇人ほど集まって「買物帳」をもとに雑用の勘定をし、大組衆らは、夫食米一〇〇石積立の相談を行い、庄屋には退役の再確認が行われた。七日には、幕府代官多羅尾主税の信楽(しがらき)役所に対し、騒動発生の届け出がなされた。夫食米は、八日から一五日にかけて残らず郷蔵に積み立てられたが、その後、大組衆らは、小前住民と代官役所との対応に追われることになった。
小前住民は、一二日、「夫食米片時も早ク喰度」と申し出た。その生活は、米高値のうえ、雨天続きで諸商いに支障が出て、日々を凌ぎかねているので、夫食米が役所の下知なしに放出できないのなら、緊急措置として、大組衆が三〇石ほど立て替えて拠出し、それを明日からでも貸与または安値で販売して貰いたいというのが願意であった。惣大寄の再発を恐れた大組衆らは、翌日さっそく寄合を開いて、とりあえず、助成米を拠出することとし、一人当たり三合ずつ、販売価格については、一石につき時価から銀二〇〇目下値とすることを申し合わせた。しかし、一五日、小前住民は、値段が高すぎるとして助成米を拒否し、あくまでも夫食米の供出を求めた。
一方、信楽役所からは、一六日、手代本庄市三郎が出役として富田林村にやって来た。翌日午前中には、まず年寄・百姓代が騒動に関して事情聴取を受け、夫食米一〇〇石というのは過分な石高ではないのかと尋問され、また庄屋がそれを売却したまま新穀を積み立てていないのを見過ごしてきた責任を追及された。年寄・百姓代は、庄屋に身びいきした取りさばきに困惑したが、それは、出役が来村する前夜、庄屋が大坂に出向いてひそかに逢い、善処を依頼したためであった。この事実はただちに発覚し、年寄・百姓代・大組衆らと庄屋との亀裂が一層深まっていった。
庄屋の取調べは、午後行われた。庄屋は、郷蔵に積み立てるべき夫食米の石高は三〇石であると強硬に主張し、また一度は了承したはずの騒動の雑用負担も拒否したい旨願い出た。出役の指示により、大組衆らが、もし元治元年九月の売却代銀一四貫九五〇目をもって新米を購入し、夫食米を積み立てておれば、いまどれほどの石高になるのかを試算したところ、表132のとおり、六九石が妥当な石高であると判断された。詰め替えは、端境期に古米を売り、新米が出回って相場が下がったときに購入する方式であった。
年月 | 銀 | 米 | 備考 |
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貫 匁 | 石 | ||
元治元年(1864)9月 | 14.950 | 売却 | |
10月 | 57.500 | 購入(1石につき銀260目) | |
慶応元年(1865)9月 | 27.600 | 売却(1石につき銀480目) | |
10月 | 69.000 | 購入(1石につき銀400目) |
注)「慶応二年五月富田林村方惑乱一件記録」(『富田林市史研究紀要』2)により作成。
しかし、年寄・百姓代・大組衆らにとっては、夫食米の減石や雑用負担の拒否は小前住民が納得するはずもないことが明らかであった。このような内容の取調状況を知った小前住民は、さっそく村会所へ押しかけ、「寄レ寄レと申立、騒々敷」なった。なかには「左様成ヱコヒイキ裁許スルト竹鎗突」などと叫ぶ者もあり、その騒然とした様子は、出役にも恐怖心を与えるに十分であった。結局、出役は、庄屋に対して、一度は了承したのであるからとして、夫食米一〇〇石と雑用を負担するよう命じた。村会所に集まっていた小前住民も、そのように落着したとの連絡を受けて鎮静化した。