信楽役所の手代本庄市三郎は、富田林村の騒動を取り調べるため来村したが、到着すると予期せぬ事態が次々と発生し、それらの対応に追われることになった。まず、富田林村に着いた五月一六日、同代官支配で隣村の新堂村において、鐘・太鼓が打ち鳴らされ、多人数が集まって騒ぎ立てるできごとが起こった。富田林村と同じく、郷蔵に夫食米を規定どおり積み立てていない村役人の責任を追及し、その供出を求めた徒党騒ぎであった。隣村での先例もあり、村役人が的確に対処したため、騒ぎは一日で終わったが、翌日、出役は、富田林村庄屋の取調べの時間を割いて新堂村役人を召喚し、事情聴取を行った。
一八日には、早朝から富田林村各町の世話人の取り調べが行われた。騒動の首謀者を特定するのが目的であった。出役は、世話人から「小前取鎮」のため大組衆らと応対した頭取の小前二人の名前が告げられると、とりあえず、彼らに「他参留め」、また庄屋には「村預け」を命じた。そして、ただちに喜志村に出向いた。これは、去る一四日から一五日にかけての大雨で石川堤防が決壊し、田畑五町歩ほどが流失したため、大坂代官所の堤方役人と立会で被害個所の見分に当たるのが目的であった。頭取二人の取り調べは、翌一九日喜志村で行われる予定であった。年寄がその旨を二人に申し渡したところ、彼らは、「小前之ものとも申ニ者、(先般の騒動は)一同之事ゆへ、銘々共も同道不仕ハ相済不申訳を申」し、八、九〇人もの小前が同道すると申し立てて村役人を困惑させたが、その夜、急に出役が志紀郡柏原村(現柏原市)へ行くことになり、取り調べは延期された。出役が夜を徹して柏原村に急いだのは、同支配の安宿郡国分村(同上)において、一六日から大規模な騒動が発生していたためであった。
国分村では、同日夜一〇時ごろ、大和川堤防に集まった群衆のうち三、四〇人ばかりの者が村内の米屋四軒を次々と打ちこわした後、西光寺の鐘・太鼓を鳴らして気勢をあげ、翌一七日明け方から同寺境内に参集するよう触れ回った。そして、集まった人々は庄屋らと「強談」を行い、米の安売り、小作年貢の減免などを要求して認めさせた。これで群衆は解散し、騒ぎはおさまったかに見えた。
手代本庄市三郎が柏原村に出役していた合役の手代から急遽出向くよう求められたのはその翌日のことであるから、騒動が鎮静化したとは認識されず、その対応策が協議されたのは間違いない。彼らからどのような内容の通報が信楽役所にもたらされたかは明らかでないが、富田林村・新堂村・国分村と、支配下の村々であいついで発生した騒動に、幕府代官多羅尾主税は大きな危機感を抱いたと思われる。ただちに、大坂城代・大坂町奉行に鎮圧を求める要請が行われ、和泉岸和田藩・伯太藩、河内狭山藩、大和郡山藩・高取藩などの出陣となった。これら近隣諸藩の大規模な出陣について、富田林村大組衆の佐渡屋徳兵衛や喜志屋藤兵衛らは、信楽役所・大坂城代・大坂町奉行所などが騒ぎに浪人あるいは浪士が多数加わっているのではないかと懸念したためであると推測している。
二二日には、これら諸藩の鉄砲を持った総勢一〇〇〇人を超える軍勢や大坂町奉行所の与力・同心らが柏原村と古市郡古市村(現羽曳野市)に陣を敷くなか、代官多羅尾主税の息子織之助が馬に乗り、本庄市三郎をはじめとする五人の手代や二〇〇人ほどの番非人を引き連れて、じきじき国分村にやって来た。そして、村境で番非人が田の草取りをしていた一〇人ほどの村民を逮捕したところ、村では、ただちに明円寺の釣鐘・半鐘・太鼓が乱打され、八〇〇人余りの村民が集まった。彼らは、竹槍を持ち、早朝から午前一〇時ごろまで、大声をあげて役人や番非人を追い回した(『柏原市史』五)。「騒動、中々、地頭役人位イハ竹槍ニて突殺ス勢イ」であったと伝えられている。
事態の収拾は、同日午後から図られ、二六日には諸藩の軍勢も引き揚げた。この日までの逮捕者は一三〇人を超えたが、その間、柏原村において手代本庄市三郎は、後に述べるとおり、富田林村・新堂村の騒動の処理にも当たっており、繁忙の日々を過ごさなければならなかった。