夫食米の貸渡と関係者の処罰

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富田林村では、出役本庄市三郎が喜志村に移動した一八日、小前住民から、またも夫食米の要求が行われた。翌日、村会所に集まった年寄・大組衆らは、今後この種の相談を繰り返すのは煩瑣(はんさ)であるとして、一〇〇石すべてを貸し渡してしまうことを決め、その準備を始めた。ところが、二〇日、柏原村の出役のもとへ「御機嫌窺(ごきげんうかがい)」に出向いた年寄に対して、出役は「此夫食米ニ少も手を附ル事ハならん、若無理ニ夫食蔵明ケ候ハヽ、村役人急度吟味申附ル」と厳命した。大組衆らは、いまさら夫食米の貸渡を中止するわけにもいかないため、大組衆ら上層住民が、郷蔵の夫食米を引当てとして、各人の手囲米の石高に比例して一時的に立て替えることとした。

 そして、翌日夫食米の貸渡が、希望者に対して実施された。「人別之者」には、一人につき米一斗ずつ貸与して、一一月二五日に新米で積み戻させ、「無宿・店借人」には、一人につき米五升ずつ、時価のほぼ半額に相当する一石当たり銀四〇〇目の値段で販売する約定であった。もっとも、人別の者でも、盆までの期間なら一石銀四〇〇目の値段での銀納は可能とされた。町ごとの夫食米貸渡・販売の明細は、表133のとおりである。合計で、石高は八四石一斗五升、人数は九六六人の多きを数えたが、そのうち、無宿・店借人は石高で一五%、人数で二六%の比率であった。

表133 夫食米の貸渡・販売
町名 人別の者 無宿・店借人 合計
石高 人数 石高 人数 石高 人数
東林町 8.300 83 1.350 27 9.650 110
富山町 8.300 83 1.800 36 10.100 119
一里山町 16.300 163 2.500 50 18.800 213
北会所町 10.800 108 2.000 40 12.800 148
南会所町 8.800 88 0.800 16 9.600 104
堺町 5.000 50 1.300 26 6.300 76
御坊町 4.800 48 0.750 15 5.550 63
西林町 9.400 94 1.950 39 11.350 133
合計 71.700 717 12.450 249 84.150 966

注)「慶応二年五月富田林村方惑乱一件記録」(『富田林市史研究紀要』2)により作成。

 騒動の取調べは、出役本庄市三郎から再三再四「差紙」が発せられ、出張先の柏原村において、新堂村・国分村の騒動のそれと同時並行的に行われた。二五日、騒動の首謀者が一〇人に絞り込まれ、柏原村に召喚された。同村に到着後、ただちに頭取の二人は縄付きにて柏原村郷蔵預け、残る八人は縄手錠にて村預けとなった。二七日には、代官多羅尾主税が信楽役所に引き揚げることになり、柏原村郷蔵預けの二人のほか、新堂村騒動の首謀者一人、国分村騒動の首謀者二〇人の合計二三人が、罪人として板駕篭により信楽に護送された。板駕篭とは、文字どおり平らで大きい板状の駕篭のことで、円形の唐丸駕篭とともに、罪人の護送に用いられていた。なお、富田林村の残り八人は、翌日、縄手錠なしの村預けを申し付けられて帰村した。

 また、出役は、二七日に小前惣代、二九日には年寄・百姓代・大組衆を呼び出し、小前惣代には「銘々者御公儀百姓ニテハナイカ、昨年来ハ大坂御在城殊御心配折柄、不相済訳テハナイカ」と申し諭し、年寄・百姓代・大組衆には、郷蔵の夫食米一〇〇石の取扱を任せることとし、庄屋の後任が決まるまでは、大組衆も村役人の心得をもって村内の鎮静化に努めるよう申し渡した。六月二日、郷蔵が開かれ、五月二一日夫食米貸渡のときに立て替えていた住民に対して、八四石余の米が返却された。そして、残り一六石弱が郷蔵に積み立てられた。

 信楽役所で入牢していた頭取がいつ釈放されたのかは明らかでない。新堂村騒動の首謀者は、七月五日に出牢したが、富田林村の二人については、大組衆への詫び状である「差入申一札之事」が慶応三年三月に作成されているので、入牢はかなり長期にわたったものと考えられる。