夜明け前

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慶応二年(一八六六)五月、各地で打ちこわし・徒党などの騒ぎが頻発したが、その後も米価は上昇し続けた。すなわち、七月に入ると、大坂での相場は一石につき銀一貫二〇〇目を超えるようになった。富田林村では、地米相場が一貫三、四〇〇目にも達し、米屋における白米の小売値段は一升につき銀一四匁五分にまで高騰した。もとより、諸物価や賃銀もこれに連動して上昇したものの、村内に数多く存在した貧窮住民にとっては、「何ヲ働候而も、壱日ニ銀拾四、五匁之働ニ相成候由ニ御座候得共、白米壱升買入候ハヽ残りハ何程も無之」というありさまであった(『羽曳野市史』五)。

 同年、ほかの村々においては、打ちこわしや徒党騒ぎを未然に防止するため、救恤が実施されたが、それらは、領主によるものと村内の上層農民によるものとに大別される。錦部郡彼方村(膳所藩領)では、四月、「村方難渋之者取調書上帳」が作成され、「極難渋之者」五二人(一七戸)、「難渋之者」九七人(二〇戸)、合計一四九人(三七戸)が書き上げられた(彼方中野家文書)。極難渋の者は、無高を四戸含み、そのほかは四石七斗一升八合を最高の持高とする零細高持である。また難渋の者は、持高九石三斗二合から九斗六升までの高持層によって占められているが、五石以上は三戸だけである。同年の膳所藩領の村民数は二五〇人であったから(同「家数人数並牛馬御改帳」)、全体のほぼ六〇%が難渋または極難渋の者とみなされていたことになる。そして翌五月、彼らに対して、膳所藩から「御下ケ米」一六石が貸与され、一人当たり一斗一升二合五夕ずつ貸し渡された。これは、六月二五日までに一石につき銀七二八匁の値段で返納する約定であった。また、一二月には、凶作を理由として、全村民を対象に持高一石につき米七升の「御貸米」が認められた(同「不熟ニ付御貸米下割合帳」)。

 石川郡龍泉村では、同年六月、村役人ら有力村民一六人が米八石を拠出し、難渋の者に対して一石につき銀七〇〇目の安値で売り渡した(龍泉谷口家文書「米穀高直ニ付下米売渡扣帳」)。また翌七月には、同村を支配していた常陸国下館藩から「御救銀」三貫八七五匁が下付された。その対象は、極難渋の者八九人(三一戸)で、一人当たり銀四三匁五分の割合で配分された(同「米穀高直ニ付小前極難渋者江御救銀として御下ケ被下候割方帳」)。

 翌慶応三年に入ると、順気に恵まれて豊作が予想され、米価が安定・下落する気配が見られた。すると、七月ごろから三河・遠江・駿河三カ国の東海道筋の宿場町とその近在において、「ええじゃないか」騒ぎが始まった。以後、この騒ぎは東海道を東西に分かれて伝播し、東は江戸から会津、西は広島・四国までの広い地域を巻き込むことになった。いずれも、伊勢神宮や各地の有名神仏の御祓札が有力な商家・農家に降ったのを契機として祭り行事が始められ、多くの人々が降札のあった家へ祝いに踊り込んで、酒・飯の振舞いを受けた。踊るとき「ええじゃないか」の囃子言葉が用いられたのは、伊勢国・近江国から西の地方に限られたが、降札とそれに伴う祭り騒ぎは、「ええじゃないか」という歴史用語で総称されている。

 大坂では、一〇月下旬からこれが発生し、翌一一月に入ると、しだいに降札の数と種類が増加し、踊りの規模が大きくなって喧騒をきわめた。天から降ったとされたものはさまざまで、伊勢神宮・石清水八幡宮・能勢妙見・住吉神社の御祓札を初め、江之島弁財天、誉田八幡宮の御影、大日如来・聖徳太子の銅像、金銀銭などであった。最盛期には、群衆が昼夜の別なく踊り回り、大坂市中が「惣休」となって、都市機能が完全に麻痺することも珍しくなかった。

 河内国でも、大坂とほぼ同じ時期、ええじゃないか騒ぎが村々に広がっていた。河内のそれは、大和国から波及したもので、大和との国境で、古堤街道が東高野街道と交わるところに位置した讃良郡中垣内村(現大東市)において、最初に始まったといわれている(島田善博「河内国の『ええじゃないか』について」(『ヒストリア』五六))。

 富田林村では、一一月初旬、伊勢神宮の御祓札一四、五枚が有力住民の家に降った。近辺では、同郡山田村(現太子町)、古市郡古市村・壺井村・大黒村・飛鳥村・駒ケ谷村(現羽曳野市)などにも降札があり、いずこも、村内はもとより近村からも緋襦袢(ひのじゅばん)を身に着けた群衆が出て、降札の当家に踊り込んだ。なかには、女装・男装の性的倒錯や異装の光景も見受けられた(『羽曳野市史』五)。

 ええじゃないか騒ぎは、有力な商家・農家に降札を行い、土足で踊り込んで酒・飯・銭などの施行を強要し、既存の社会秩序を無視したところに、前年の打ちこわしと類似点が認められる。すでに幕府に対する民心の離反は決定的であり、世直し的な願望が強く顕在化していた。しかし、民衆が社会変革のための指導勢力を生み出すことなく、ええじゃないかの乱舞にエネルギーを噴出させ、マス・ヒステリアの状態に陥っていたとき、慶応四年一月三日、鳥羽・伏見の戦いが開始され、歴史の新たな歩みが始まっていった。