戊辰戦争の波及

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慶応四年(明治元・一八六八)一月三日夕刻、前将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の「討薩表」を朝廷に提出するため上京しようとする旧幕府軍と、入京を阻止しようとする薩長軍とが衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まった。四日には勝敗が決し、旧幕府軍は敗走して大阪城に入った。六日夜、慶喜は密かに大阪城を脱出して海路江戸に向かうと、それを知った旧幕府軍は混乱し、海路江戸に戻るため、算を乱して紀州藩へ向けて落ち延びようとした。富田林周辺にも、高野街道を経て紀見峠から紀州に入ろうとする落武者が姿を見せた。富田林村の年寄杉田善兵衛は、次のように書き残している(富田林杉田家文書「御勅使鷲尾様御通行人足賃銭割方帳」)。

当正月三日於城州伏見徳川并会津勢と薩長土之三勢と争戦<ママ>ニ相成、伏見表焼失并淀・橋本・牧(枚)方辺日々合戦ニ相成、焼失之家多キ由、六日ニハ日月之御籏押建来リ候ニ付、薩長土之三藩ハ官軍と称し、徳川御方朝敵と唱候より惣勢一致ならす、終(つい)ニ者徳川方敗軍ニ相成、七日夕方大坂御城陥落し、諸勢離散、八日・九日・十日比(ごろ)ニハ落武者・落人等当所へ来ル、大躰之大将分并籏本勢、会津・桑名・大垣、或ハ散兵組歩兵之もの迠、皆紀州へ向落行、哀成事也、有畏(為)転変之世の中とハ云なから須臾(しゅゆ)の間ニ大変慷慨(こうがい)不堪、人心悉(ことごとく)怖畏、此節夜毎ニ山と海とニのろし見ヘル(中略)、十日ハ大坂城中焔硝蔵焼亡ス、其音甚敷迅雷(じんらい)の如く、又地震の如し、響キ暫時難堪人皆驚懼(きようく)スルコト

 大阪城が落城し、旧幕府軍が敗走する姿は、幕領富田林村の年寄にとっては、「哀れなること」であり、「慷慨にたえないこと」であった。村人たちも戦乱が波及することを心配し、はるか彼方の大阪城火薬庫の爆発音に怖れおののいた。それに追討ちをかけるように、一一日午前一〇時ごろ、三日市村(現河内長野市)の役人がやって来て、鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)隊の宿泊を告げた。富田林村では、三日市村役人に礼金二朱を贈って労をねぎらうとともに、大急ぎ準備に着手した。村内は大混乱に陥ったが、まもなく軍勢三五〇人余が錦旗を擁して到来した。村では「致し方なく、戦慄(せんりつ)ながら」(「御勅使鷲尾様御通行人足賃銭割方帳」)指図に従って次のように宿割をした。

本陣           富田林御坊

 輔翼・監察・軍監     御対面所

 近習           さやの間

 斥候           玄関

 旗本・医師・病院     御居間の次

 勘定方 吉田雄蔵     小玄関

 器械方・輜重(しちょう)方      本堂

 器械方・輜重方支配役人  客殿

東一番隊 隊長田中顕助  大浜喜兵衛

東二番隊 隊長片岡源馬  浄谷寺

東三番隊 隊長山本一郎  西方寺

東五番隊 隊長玉置正平  妙慶寺(「高野山出張概略」では玉国)

東六番隊 隊長田中謙七郎 祢酒平蔵

七番隊  隊長下玉織之助 妙慶寺

南一番隊 隊長山田小二郎 浄谷寺(「高野山出張概略」では小次郎)

 各隊の人数は三四人、本陣宿泊者は約一三〇人であった。乗馬八頭は錦郡屋捨五郎に、別当八人は大坂屋伊三郎方に預けられた。また、楠見(くすみ)組一六人が箱屋利兵衛宅に宿泊している。水郡庸皓(にごりつねあき)『天誅組河内勢の研究』によれば、慶応三年一二月、鷲尾隊の参謀香川敬三が薩摩藩浪士葛見竜五郎を向田(こうだ)村(現富田林市甲田)の水郡長義の許に派遣し、鷲尾隊への参加を勧めた。長義は、天誅組河内勢の首領水郡善之祐の長男で、天誅組に参加したが、幼少のため許されて実家に戻っていたのである。四年正月、長義は、葛見の再度の勧誘を受けて天誅組と関係のある十数人と共に葛見に率いられて、三日市に向かって進軍中の鷲尾隊に加わり、遊撃軍と呼ばれたという。楠見が葛見の聞き誤りであれば、この楠見隊が水郡長義らの遊撃軍であったことになる。楠見は紀州の地名で、楠見姓を名乗るものも多かったから、聞き誤った可能性が高い。

写真1 慶応4年「御勅使鷲尾様御通行人足賃銭割方帳」「鷲尾侍従様御泊諸入用勘定帳」(杉田家文書)