鷲尾隆聚の高野山出兵

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慶応三年(一八六七)一二月九日、王政復古の号令が出されるが、それに先だって御三家の一つとして佐幕論を主張する紀州藩を監視・牽制する必要があった。そのため、前侍従鷲尾隆聚に命じて陸援隊・在京十津川(とつかわ)郷士を率いて高野山に赴かせることになった。一二月六日、「国事私議」を疑われて謹慎中であった鷲尾を香川敬三・三宮耕庵らが夜陰にまぎれて訪れ、近々高野山出張の内勅が下ることを伝えた。八日夜、鷲尾は、監視の目を潜って自邸を脱出し、密かに正親町(おおぎまち)邸に入り、内勅を伝えられるとともに謹慎を解かれた。白川の土佐藩邸に潜んでいた陸援隊員らも参集し、伏見では在京の十津川郷士も加わって、十津川郷士隊が交代のため帰郷すると称して、五艘の船に分乗して大阪八軒屋(現大阪市中央区)に下った。そこから陸路、堺・三日市を経て紀見峠を越え、学文路(かむろ)・神谷(現和歌山県橋本市・同県高野町)を経て一二日夕刻、高野山に到着し福生院に入った(国立公文書館所蔵「高野山出張概略」)。

写真2 「高野山出張概略」(国立公文書館所蔵)

 高野山に入った鷲尾は、金光院を本陣と定め、高野山に三〇〇〇両の御用金を命じ、十津川に勅書を伝えて義兵を募るとともに、紀州藩・高取藩・五条代官所にも使者を派遣して、その動きを牽制した。紀州藩は橋本に派兵して警戒を深めていたが、鳥羽・伏見の戦いが始まると、朝廷から鷲尾の軍勢と協力して大阪城を攻略することを命じられた。紀州藩は、いったん旧幕府軍を助け薩長軍と戦う方針を定めたようであるが、鳥羽・伏見の戦いの形勢が伝わると出兵を断り、朝廷に恭順の意を表する一方で、敗走してきた旧幕府軍を密かに海路江戸に脱出させた(梅溪昇「明治維新と紀州藩―王政復古、鳥羽・伏見の戦い前後を中心に―」『和歌山県史研究』一〇)。

 慶応四年一月四日夜、鷲尾らは、大阪方面に火の手が上がったというので偵察を派遣し、徹夜で軍議を重ね、五日には東三番隊・南一番隊・東五番隊一〇〇人余を派遣して五条代官中村勘兵衛を降伏させ、役所を接収した。六日、大阪城を攻略せよとの勅書に添えて錦旗がもたらされ、七日にも再度の達しを受けた。鷲尾は、慎重に様子をうかがっていたが、大阪落城の報告が届いた一〇日早朝、三〇〇余の軍を率い錦旗をかざして出陣し、橋本から五条に入った。一一日、大阪進軍を見合わせて大和を鎮撫(ちんぶ)し、後日の沙汰を待つようにという正親町少将の口上書と、待機を要望する西郷隆盛の書簡が届けられたが、鷲尾は、大阪進軍の方針を変えず、同日、富田林に入って一泊した。一二日には新堂・中野・喜志(以上現富田林市)・東阪田・古市(ふるいち)・誉田(こんだ)(以上現羽曳野市)の諸村を通り、誉田陵に参拝して出兵の報告をし、野中・藤井寺・岡・小山・津堂(以上現藤井寺市)・若林・大堀村(以上現松原市)から大和川を渡り、川辺(かわなべ)・長原・喜連(きれ)・出戸(でと)(以上現大阪市平野区)の諸村を経て平野の大念仏寺に入った。岩倉具視(いわくらともみ)は、この浪士・郷士兵を中心とする軍隊の動向を心配したようで、民心の帰服が大切であるから粗暴の振舞いがないようにとの懇書を送っている。一三日午後、平野を出発した一行は、大阪天満本泉寺に宿営し、一四日、鷲尾が征討大将軍仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあき)親王の本営(北御堂)に参上したところ、早急に帰京するように命じられた。一行は、田中顕助(たなかあきすけ)(光顕)ら数人を残して、一五日早朝に八軒屋から乗船して帰京の途についた(「高野山出張概略」)。