慶応四年(明治元・一八六八)一月一二日に鷲尾隊は立ち去ったが、山中田(やまちゅうだ)に通ずる橋のたもとの河原に、落武者と思われる晒(さら)し首を一つ残して去った。傍らには次のような立札が建てられていた(富田林杉田家文書「御勅使鷲尾様御通行人足賃銭割方帳」)。
歩兵差図役
小笠原鉱次郎
此者
朝敵徳川氏之家人ニ而、此度於大坂官軍奉敵対天誅難遁、終於紀見峠当官軍手打取、後来為戒令梟首(きようしゆ)者也
晒し首にされた小笠原鉱次郎(「高野山出張概略」では鉱五郎、「十津川郷兵出張事録」では幸次郎)を討ち取ったのは、五条援軍のために派遣された東一番隊である。彼らは九日、紀見峠で紀州へ落ち延びようとする旧幕府軍六〇人余と遭遇し、これを挟撃して撃破した。旧幕府軍の戦死者は六人であったが、小笠原が富士見蔵番兵隊指図役として、この隊を率いていたため首級を挙げられたのである。戦死者を除く旧幕府軍は橋本から紀州藩領に落ち延びてしまい、大阪進軍を急ぐ東一番隊は取って返し、富田林で本隊に合流した。その間の事情を隊長田中顕助は、高野山本営参謀に次のように報告している(国立公文書館所蔵「十津川郷兵出張事録」)。
御先鋒東一番隊、今日払暁学文路宿出発浪華城目さし進軍候所、河紀境紀伊見峠ニ於テ浪華之敗兵賊六十人計ニ行合、直ニ炮戦ニ及候所、賊峠之要所より撃下シ候ニ付、味方奇兵渓間ニ伏セ正兵ハ本道ヲ操引ニ退キ候所、賊追々進来候間伏兵一時ニ起リ連発、賊四人ヲ打斃(うちたお)シ二人ヲ切伏セ候所、此内一人ハ此賊之隊長籏本小笠原幸次郎也、分補も有之候、略之、其余之賊四方ニ敗散一人モ抗スル者ナク、直ニ橋本迠追撃致候所、紀州和歌山ヲ目さシ逃下リ候様子ニ付其侭(まま)見捨置、直ニ浪華路江進軍仕候、此段不取敢御報知申上置候事
一一日夜、隊長田中顕助と副長伊藤源助は鷲尾の許に参上し、首級の実検を受けるとともに戦利品を報告した。戦利品の主なものは、施条銃一一挺、同銃剣一一挺、元込玉薬五〇発、刀四本、脇差三本、ランドセル三〇、喇叭(らっぱ)一つ、遠眼鏡一つ、時計二つなどであった。田中・伊藤と東一番隊には、鷲尾から感状が授けられた(国立公文書館所蔵「高野山出張概略)。