助郷の負担

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幕末が近付くと将軍上洛、勅使下向、幕閣や藩主などの京都往還が激しくなり、宿駅人馬の動員も激増したため、河内の村々にも加助郷(かすけごう)が課せられるようになった。慶応元年(一八六五)、第二次征長の役に際して将軍進発のための当分助郷(とうぶんすけごう)が課せられると、各地で反対運動が起こり、富田林周辺村々でも反対訴願や請印拒否、助郷不勤などの抵抗が起こった(『市史』二 七四〇~七四三頁)。慶応三年、幕府は助郷・当分助郷を廃止したが、東征が始まると維新政府は、街道・宿駅の掌握と宿駅人馬の動員を急ぎ、慶応四年二月上旬には体制を整えた。一月一三日、東海道鎮撫総督の大津進発に先だって、信楽代官多羅尾(たらお)光弼が小荷駄(こにだ)奉行に任命され、東海道沿道各駅での休泊と人馬継立の衝(しょう)にあたることになった(山本弘文「戊辰期の軍事輸送と助郷再編成―宿駅制終末期の一研究―」児玉幸多編『日本交通史』所収)。

 慶応四年五月、石川郡の政府直轄領三一か村に東海道大津宿の助郷が命ぜられた。その賦課方法は、表2のように、村高から永荒(えいあれ)などを引いた残高の四割を掛高とする。掛高は、史料によって若干の相違があるが、表3にみられるように掛高一〇〇石に対して約六八四貫九〇〇文の割合で銭に換算された。慶応四辰年は大洪水で、表2の「辰損地高」のような被害をもたらしたが、助郷賦課に際してどのように斟酌(しんしゃく)されたかは不明である。神山(こうやま)組では、掛銭七三二七貫三三〇文のうち、五一八一貫五三四文を明治二年(一八六九)一二月までに納め、残り二一四五貫七九六文の滞金(とどこおりきん)は、三等分して三年七月二五日・四年五月二五日・四年一〇月に利息をつけて納入することになった。第一回目の納入は、期限に遅れて八月になり、その金額は、二年九月から三年七月までの利子を合算した七七八貫二一〇文に延利二四貫九〇三文(史料は「九三〇文」)を加えて八〇三貫一一三文になった。これを一両一二貫二〇〇文に換算して金七〇両を納めたので、五〇貫八八七文の納め過ぎになり、四年五月分から差し引くことになった。その後も、相場に合わせて換算して金で納入しているが、他組の村に融通したり、複雑な精算をしている(甘南備小村家文書「助郷賄銭仕訳勘定帳」)。明治三年七月、錦部郡錦郡村が堺県に提出した口上書は、「当郡中之義ハ先前より何事ニよらす郡中一躰平等之割、宿助郷も同様事ニ御座候間、郡中惣代より宿駅方出銀被致呉候」(彼方土井家文書「東海道亀山宿助郷懸り断書手続扣」)と述べており、石川郡三一か村も、まとめて助郷賄金(まかないきん)を上納していたものと思われる。四年八月、五条県は、詰総代を呼び出して、一〇月二五日に納めることになっていた助郷滞金を八月五日に納めるよう求めた。それに対して八月一八日、新堂・一須賀・山中田・北大伴・山田五か村の庄屋が総代として連署した請書を提出している(「新堂平井家文書「乍恐御請書」)。

表2 石川郡31か村大津駅助郷掛高(慶応4年5月~明治2年4月)
村名 村高 残高 掛高(4分) 辰損地高
南大伴 254.803 21.8820 232.9610 93.18000 97.0140
板持 258.562 78.2080 180.3540 72.14160 31.3490
北大伴 582.519 83.2430 499.2760 199.71040 185.8620
1,095.924 183.3330 912.5910 365.03200 314.2250
南別井 246.168 37.8200 208.3480 83.33920 11.4580
北別井 267.012 10.7000 256.3120 102.52480 19.2080
一須賀 741.054 35.4471 705.6069 282.24276 261.2277
山中田 454.412 115.1170 339.2950 135.71720 87.5450
1,708.646 199.0841 1,509.5599 603.82396 379.4387
春日 738.092 46.7670 691.3250 276.53000 102.8610
山田 1,420.574 131.0771 1,289.4969 515.79876 168.0080
太子 1,614.042 425.5520 1,188.5000 475.40000 733.7360
3,772.708 603.3961 3,169.3219 1,267.72876 1,004.6050
大ケ塚 77.090 0.0000 77.0900 30.83600 0.0000
寛弘寺 347.922 16.1030 331.8190 132.72760 45.6010
神山 456.114 6.3440 449.7700 179.90800 52.7680
芹生谷 216.183 0.0400 216.1430 86.45720 22.9380
森屋 737.034 4.4175 732.6165 293.04660 11.3640
川野辺 157.902 0.0600 157.8420 63.13680 18.8460
甘南備 332.019 0.1150 331.9040 132.76160 0.0000
山城 481.740 58.5070 423.2330 169.29320 65.9070
2,728.914 85.5865 2,643.3275 1,057.33100 217.4240
東山 476.908 44.3900 432.5180 173.00700 110.2710
葉室 320.768 29.5150 291.2530 116.50100 27.9040
寺田 499.341 49.5990 449.7420 179.89600 30.9220
354.320 85.8620 268.4580 107.38300 4.7080
下河内 394.820 73.9730 320.8470 128.33800 30.9220
持尾 387.500 9.3119 378.1881 151.27524 56.1980
弘川 17.000 0.0000 17.0000 6.80000 2.9830
2,450.657 292.6479 2,158.0061 863.20024 263.9080
新家 322.083 7.0210 315.0620 126.02480 58.7850
毛人谷 680.212 9.9300 670.2820 268.11280 37.2000
富田林 98.939 0.0000 98.9390 39.57560 0.0000
中野 658.779 10.5910 648.1880 259.24720 88.6870
喜志 1,826.694 57.5070 1,769.1870 707.67560 231.0320
新堂 1,727.630 66.5130 1,661.1170 664.44680 86.0570
5,314.337 151.5620 5,162.7770 2,065.08280 501.7610

注1)新堂平井家文書「辰五月より巳四月迠大津駅助郷掛ヶ高取調帳」「大津駅助郷附属河州石川郡村々当辰五月損地高取調帳」より作成。
 2)表中の数字については、計算し直したものがある。

表3 神山組・喜志組助郷掛銭
村名 掛高 掛銭 100石ニ付掛銭
神山組
寛弘寺 132.720 909.017 684.913
神山 179.900 1,232.157 684.912
芹生谷 86.183 592.107 687.035
森屋 293.040 2,007.068 684.913
川野辺 63.130 432.382 684.907
甘南備 132.760 909.288 684.911
山城 181.820 1,245.311 684.914
1,069.553 7,327.330 685.083
喜志組 新家 122.040 835.863 684.909
毛人谷 263.870 1,807.275 684.911
富田林 39.500 270.531 684.889
中野 256.800 1,758.851 684.911
喜志 698.420 4,783.570 684.913
新堂 661.750 4,532.416 684.914
2,042.380 13,988.506 684.912

注1)甘南備小村家文書「助郷賄銭仕訳勘定帳」、新堂平井家文書「大津駅附属助郷掛り高差引帳」より作成。
 2)表中の数字については、計算し直したものがある。

 明治三年一月一〇日、堺県司農局は、慶応四年五月以来の助郷掛高を、雛形に従って村ごとに報告するよう布達した(『堺県法令集』一)。彼方(おちかた)村は、三年三月二八日に「草津宿助郷書上ヶ帳」(彼方土井家文書)を提出しているが、村高九七石八升から永荒二三石一斗一升六合七勺を引いた残高七三石九斗六升三合三勺の四割に当たる二九石五斗九升が掛高になっている。掛金高(かかりきんだか)は、表4のとおりである。三年三月に駅法が改正されると、堺県は四月三日、「当四月ヨリ助郷掛リ総テ被廃候間、一統得其意、是迄之滞金早々差出候様可致事」(『堺県法令集』一)と布達した。助郷は廃止されたが、多くの村では掛金の納入が滞っていた。先の石川郡三一か村も、滞金の精算に一年半に近い歳月を費やしている。

表4 彼方村の草津宿助郷掛金
期間 月数
辰5月~辰10月 6 8 584.4
辰11月~巳4月 6 14 135.1
巳5月~巳7月 3 1 888.7
巳8月~巳9月 2 1 337.2
巳10月 1 745.0
巳11月~巳12月 2 1 213.2
午1月~午2月 2 1 367.1
午3月~4月(見込金) 2 1 331.5
合計 24 27 3,602.2

注)彼方土井家文書「草津宿助郷書上ヶ帳」より作成。

 慶応二年五月、東海道亀山宿の助郷が錦部郡村々に課せられた。村々は他の助郷を課せられており、二重の負担になるとして請印を拒否し、掛金も納めなかった。ところが、助郷が廃止され滞金の精算が急がれていた明治三年七月、亀山藩から堺県・五条県を経て、滞金の納入を求めてきた。県では両者の話合いによる示談を説得したが、彼方・錦郡両村では、当時請印を断り、その後請求もないことを理由に拒否の姿勢を貫いている。このように、助郷問題は、制度廃止後もなおしばらく尾を引くことになった。