維新動乱も覚めやらぬ慶応四年(明治元・一八六八)閏(うるう)四月二〇日ごろから、激しい雨が断続的に降り続き、五月中旬、淀川・大和川などが各所で決壊して大洪水となった。さらに、復旧工事が本格化していない七月中ごろから再び大雨が降り、再度の洪水となった。山中田村では、五月一二日に石川・佐備川の堤防が各所で決壊したり破損したりした。修復工事を願い出るとともに、仮締切りなど応急処置をしておいたところ、七月一八日の洪水で再び決壊し、被害箇所が拡大してしまった(山中田杉山(壽)家文書「乍恐奉願上候」)。国役堤の決壊箇所は、五か所、三三六間余であったが、復旧工事は、同年(明治元年)一一月に終わり、村から大阪府堤方役所に届書が出されている(同「乍恐口上」)。しかし、洪水防御のためには本格的な修復工事が必要であり、明治二年(一八六九)春には施工願いが出されたようである。石川は急流で、堤防への水当りが強く、提示された工事計画は不十分なものであった。山中田村では、二年一〇月一五日、以前のように蛇籠(じゃかご)・続片枠(つづきかたわく)による工事を施すことと、工事費の下渡しを出願している(近代Ⅶの二)。洪水による井路や溝などの被害は、村民の手で復旧しなければならなかった。さらに、河川の決壊は、砂入・床堀・地味流など田地の荒廃をもたらし、復旧には多大の労力と費用を必要とした。山中田村は、二年三月、田地復旧費の借用を河内県に願い出た(山中田杉山(壽)家文書「乍恐以書付奉願上候」)。四月、金三五〇両を一〇年賦、年利五朱で拝借し、同年一二月二三日に、その年の返済金三五両と利子一四両二分・銭九五文を堺県に返済している(同「乍恐口上」)。このような借入金は、元銀・利子を長年にわたって返済しなければならず、村の負担となった。
山中田村と西板持村の境で石川に合流する佐備川も、慶応四年の洪水で決壊した。八月二三日、甲田・南大伴・板持三か村は、南司農局に次のような嘆願書を提出した(東板持石田家文書「乍恐奉歎願候」)。
右村之儀者、去ル五月以来、度々大出水ニ而、堤切所(きれしよ)多分出来、難渋不少、何れ茂普請取掛り候手段も無御座候ニ付、則(すなわち)最前自普請手当金御拝借奉歎願居候処、今般厚思召ヲ以、石川大和川所々切所御取調之上、多少ニ応し手伝人足御下ヶ渡しニ相成候趣承リ、難有奉存、然ル処私共村々之儀者、御国役堤与ハ違、自普請所之義ニ付、御手当金御下渡無之、且小高小村之儀、村方小人数与申、切所多分之事故、普請仕様も無之候得共、捨置候而者山川を抱え候村方ニ付、又々大水押込候ハヽ、弥以(いよいよもつて)村方亡村仕候より外無之哉与心痛仕居、中々以小人数ニ而者迚(とて)も出来兼候ニ付、右河内一円助成人足之義、切所御改之上、相応之人足御下渡し被為 成下候様、乍恐只管(ひたすら)奉願上候、右御聞済被為 成下候ハヽ、広太(大)之御慈悲難有仕合奉存候
大和川・石川の国役堤なら下渡し金が支給されるが、自普請の所では復旧工事もままならない。再び洪水になれば亡村になってしまう恐れがあるから、水害の被害の大きかった河内一円に助成をお願いするというのである。山中田村も、二年五月八日、佐備川堤防応急工事費の助成を嘆願したが(山中田杉山(壽)家文書「乍恐口上」)、その直後の六月七日と七月一三日の洪水で被害を受け、九月、再び応急工事費の助成を嘆願している(同「乍恐以書附奉願上候」)。このように動乱と天災に苦しむ村々は、戊辰戦争のための助郷人足賃の負担や調達金が加わり、困窮の度を深めることになった。