慶応四年(明治元・一八六八)一月一〇日、政府は旧幕府領を直轄地とすることを庶民に布達した。一月二二日、参与兼内国外国事務掛醍醐忠順(だいごただおさ)(大納言)と議定(ぎじょう)兼外国事務総督伊達宗城(だてむねなり)を大阪鎮台に任命したが、一月二七日、醍醐・伊達の着任を待たず大阪鎮台を大阪裁判所と改称し、醍醐を総督、伊達を副総督に任命した。大阪裁判所は、二月二日に営所を西本願寺掛所(津村別院)から内本町橋詰町(現大阪市中央区)の旧西町奉行所に移し、同月二一日には、旧鈴木町代官内海多次郎に摂河両国の旧支配地を支配させた。内海は、総督の許可を得て谷町一丁目の旧代官所に司農方の事務所を開設し、与力・同心など旧幕吏を登用して施政を行った(『大阪府全志』一)。五月二日、大阪裁判所は大阪府と改称され、間もなく後藤象二郎が知事に就任した。同月二三日に兵庫県が設置され、六月二二日には堺県が設置されたのにともなって、大阪府の管轄区域は狭まった。六月八日、大阪府は、司農方を改め司農局を設置し、郡村を支配させた。さらに、七月八日、司農局を南北に分け、南司農局が河内を担当することになった。大阪府判事税所(さいしょ)長蔵(篤)が局長を兼ね、旧鈴木町代官役宅(現大阪市中央区)を役所とした。翌明治二年(一八六九)一月二〇日、南司農局は河内県と改称され税所が知事になった。役所は、大阪鈴木町の南司農局跡に置かれたが、四月、河内国若江郡寺内(じない)村(現八尾市)の大信寺を仮役所として移転した。しかし、それも束の間、同年八月二日には廃県となり堺県に合併された。
維新直後の本市域の行政区画の変遷の概略は、表5のとおりである。代官多羅尾織之助・小堀数馬・木村宗太郎の支配地は、形式的には一月一〇日の布達によって没収され政府直轄地になったが、六月二七日に大阪司農局に引き渡されるまで、当分預け地として従来どおりの支配が認められた。一月一〇日、薩長両藩が回村を始め、敗残兵の捜索と郷蔵米の調査を行った(『新修大阪市史』五)。一六日、小堀数馬支配地の板持村へも薩摩藩出役が訪れ、前年度年貢米の残米を封印した。ところが、その後、小堀役所から慶応四年の年貢銀先納期限の触状が回達された。板持村では、これを拒否するために薩摩藩支配を願い出た。その嘆願書は、次のように結ばれている(東板持石田家文書「乍恐奉歎願候」)。
郡 | 村名 | 高 | 慶応4.1 | 慶応4.5 | 慶応4.6 | 明治2.1 | 明治2.8 | 明治2.12 | 明治3.2 | 明治4.7 | 明治4.11 |
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石川 | 富田林 | 98.9390 | 大阪裁判所・内海多次郎支配 | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 |
毛人谷 | 680.2120 | 小堀数馬当分預け | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
新堂 | 1,727.6300 | 多羅尾織之助当分預け | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
中野 | 658.7790 | 多羅尾織之助当分預け | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
喜志 | 1,826.6940 | 大阪裁判所・内海多次郎支配 | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
新家 | 322.0830 | 多羅尾織之助当分預け | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
南大伴 | 254.8430 | 小堀数馬当分預け | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
北大伴 | 582.5190 | 小堀数馬当分預け | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
山中田 | 454.4120 | 小田原・大久保加賀守忠礼領 | 大阪府 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
南別井 | 246.1680 | 小田原・大久保加賀守忠礼領 | 大阪府 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
北別井 | 267.0120 | 小田原・大久保加賀守忠礼領 | 大阪府 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
板持 | 258.5620 | 小堀数馬当分預け | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
佐備 | 1,001.0220 | 膳所・本多主膳正康穣領 | 膳所藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 堺県 | |
龍泉 | 7.2750 | 膳所・本多主膳正康穣領 | 膳所藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 堺県 | |
〃 | 338.0550 | 下館・石川若狭守総管領 | 下館藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 堺県 | |
甘南備 | 332.0190 | 木村宗右衛門当分預け | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
〃 | 405.7550 | 下館・石川若狭守総管領 | 下館藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 下館県 | 堺県 | |
錦部 | 廿山 | 839.6676 | 中太夫水野但馬采地 | 大阪府 | 同左 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 |
〃 | 6.5330 | 神戸・本多伊予守忠貫領 | 神戸藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 神戸県 | 堺県 | |
〃 | 63.1486 | 狭山・北条主膳正氏恭領 | 狭山藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 堺県 | 同左 | 同左 | |
加太新田 | 321.2786 | 中太夫水野但馬采地 | 大阪府 | 同左 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
〃 | 25.6077 | 狭山・北条相模守氏恭領 | 狭山藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 堺県 | 同左 | 堺県 | 同左 | |
新家 | 202.4290 | 神戸・本多伊予守忠貫領 | 神戸藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 神戸県 | 堺県 | |
甲田 | 209.9880 | 小堀数馬当分預け | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
〃 | 621.5360 | 神戸・本多伊予守忠貫領 | 神戸藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 神戸県 | 堺県 | |
錦郡 | 1,033.1000 | 上士甲斐庄帯刀采地 | 大阪府 | 同左 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
〃 | 358.4800 | 狭山・北条相模守氏恭領 | 狭山藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 堺県 | 同左 | 堺県 | 同左 | |
錦郡新田 | 181.4000 | 上士甲斐庄帯刀采地 | 大阪府 | 同左 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
〃 | 51.4480 | 狭山・北条相模守氏恭領 | 狭山藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 堺県 | 同左 | 堺県 | 同左 | |
伏山新田 | 128.0320 | 小堀数馬当分預け | 同左 | 大阪府司農局 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
彼方 | 504.8400 | 膳所・本多主膳正康穣領 | 膳所藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 膳所県 | 堺県 | |
〃 | 97.0800 | 狭山・北条相模守氏恭領 | 狭山藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 堺県 | 同左 | 堺県 | 同左 | |
板持 | 749.0630 | 中太夫小出主水采地 | 大阪府 | 同左 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
〃 | 0.8000 | 神戸・本多伊予守忠貫領 | 神戸藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 神戸県 | 堺県 | |
嬉 | 219.6000 | 狭山・北条相模守氏恭領 | 狭山藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 堺県 | 同左 | 堺県 | 同左 | |
横山 | 61.6030 | 中太夫小出主水采地 | 大阪府 | 同左 | 河内県 | 堺県 | 同左 | 五条県 | 同左 | 堺県 | |
伏見堂 | 337.4610 | 神戸・本多伊予守忠貫領 | 神戸藩 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 神戸県 | 堺県 |
注)『大阪府全志』1より作成。
右模様ニ而者先支配不相離様子ニ付、一端豺狼(さいろう)之危難ヲ遁レ再ひ虎穴ニ趣(赴)之次第ニ而百姓一同驚歎仕候、何卒薩州様御仁政之恩波ニ浴し度、赤子之親を慕ふ如く仰望仕候間、無御見捨格別之御憐愍(れんびん)を以御聞届ヶ被為 在候ハヽ数万(多カ)之百姓永続之基与世々代々亡却不仕、難有仕合ニ奉存候
富田林・喜志両村は、慶応三年以来内海の支配に属しており(『市史』二 四六九頁)、内海が担当する大阪裁判所司農方の支配下に置かれることになった。旗本知行所について、政府は、五月二四日、「以来万石以下之領地并寺社領共其国々最寄之府県ニテ支配可致事」(『法令全書』)と布達して、近隣府県の支配に移管した。しかし、これも形式的なもので、二八日には「元旗下上京帰順之面々、先般徳川御処置被 仰付候上ハ、出格之 思召ヲ以、元旗下都(すべ)テ本領安堵被 仰付候、就テハ高家以下席々旧号ヲ廃シ凡(すべ)テ中大夫・下大夫・上士三等之列ニ被 仰付候(後略)」(同)と布達して、従来どおりの支配を認めた。本市域の旗本知行地も、形式的には大阪府の支配に組み込まれたが、水野但馬と小出主水が中太夫に、甲斐庄帯刀が上士に列せられ、明治二年一二月の上知(あげち)まで、知行地をそのまま支配していた。
藩領は従来どおりの支配に任されたが、閏四月二一日の「政体書」によって府藩県三治制となると、俗称にすぎなかった「藩」が、公式名称として認められた。ところが、小田原藩は、慶応四年五月一九日、佐幕派の遊撃隊が箱根の関門に迫ると、箱根を守備していた藩兵が、これに味方して維新政府の軍監ら十数人を殺害した。二五日、東征大総督府の問罪使に対し、藩主大久保忠礼(おおくぼただのり)は恭順を誓い、翌日、小田原藩兵が遊撃隊を討伐した。しかし、六月、忠礼は謹慎を命ぜられ、藩士は入京禁止、所領は没収されることになった(『明治天皇紀』一)。本市域でも、小田原藩領であった山中田・南別井・北別井三か村が、六月一〇日、大阪府に移管された(『大阪府全志』一)。