明治二年(一八六九)一月二〇日、薩長土肥四藩主の版籍奉還の上表文が提出された。これは、維新政権に所領再確認を求めることに重点があるような表現になっていたため、地位の安定を願う他の藩主たちもこれにならい、次々と奉還を願い出た。六月一七日から二五日にかけて版籍奉還が勅許されるとともに、藩主は、知藩事に任命された。
狭山藩主北条氏恭(ほうじょううじゆき)は、六月二三日に知藩事に任命されたが、翌日、「朝政更新始、名実並行之御趣旨ニ付、不肖之私、難堪其任奉存候」「封土ハ最寄之県ヘ相納、私儀ハ何卒知事御免被成下候様奉願候」と辞職を願い出た。その理由として、「微弱之兵備」で「藩屏(はんぺい)之名」に背くことと、版籍奉還によって中央集権(郡県)制になると思っていたことを挙げている。辞任は、すぐには許可されなかったが、再度、上京出願し、一二月二六日に許された。狭山藩は廃藩となり堺県に合併され、河内の所領は堺県に、近江の所領は大津県に移管された(『狭山町史』一)。三年一月、河内狭山藩領の村々には、旧狭山藩役所から、知藩事辞任許可の通知と共に「猶相達候迠総而是迠之通可相心得候事」と通達があり、二月九日には、堺県から旧狭山藩領庄屋の呼出しがあり、「北条従五位支配地上地之分、今度当県支配被仰付候条、此旨相心得可申もの也」と達せられた(松原市西川宏家文書「狭山御役所従御触書写帳」)。狭山藩が、廃藩置県を待たずにいち早く廃藩を願い出たのは、幕末以来の軍備負担などで財政が破綻していたからである。藩の財政難は、領内村々の負担となり、廃藩後も尾を引いた。
狭山藩では、近江の支配地の村役人が、廃藩の趣旨を伺い出たのに対する回答の中で、「諸藩領地返上被仰付、府藩県之三役場を以闔国(こうこく)相治候御趣意ニ相成候得共、元々庶民を治め候ニ者府県之二治ニ而相済候筈、藩之義者畢竟前々より領民を治め来候手続ニ而其侭被差置候事与被存候」(『狭山町史』二)と述べているが、版籍奉還後の藩は、それ以前のままではなかった。府藩県三治一致の徹底がはかられ、民政・財政・軍事・司法など、あらゆる面で藩は府県に近いものとなり、政府の統制が強化された。知藩事の家禄を藩の収入の一〇分の一と定め、家政と藩庁経費は明確に分離され、三年九月の藩制によって藩の職制も統一された。軍事費も藩の収入の九分と定められ、その半額は海軍費として政府に納入することになり、藩債・藩札の処理も義務づけられた。