五条県の設置

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明治三年(一八七〇)二月二七日、太政官は、「今般大和国ニ五条県被取建候事」(『法令全書』)と五条県の設置を布達した。県令は鷲尾隆聚、その管轄区域は、大和国吉野・宇智両郡、高野山金剛峰寺旧領紀伊国伊都(いと)・那賀両郡と河内国石川・錦部両郡のうち下館(しもだて)・神戸(かんべ)・膳所(ぜぜ)藩領および旧狭山藩領を除く地域である(『大阪府全志』一)。五条県に編入された石川・錦部両郡の村々は、大阪府司農局・南司農局・河内県を経て堺県に引き継がれたものである。三年四月になって民部省から堺県に「別紙高帳写之通五条県管轄相成候間、地所引渡可申事」(同)という通達があった。堺県は、それまで五条県設置のことを知らされていなかったようで、準備が整わず、四月二〇日、五条県庁に「至急御引渡可申処、当今甚人少にて何分行届兼候に付き、追て当方より可及御左右候間、夫迄之処暫(しばらく)御猶予相成度」(同)と引渡しの延期を申し入れた。ところが奈良県五条出張所からは、二二日、次のような回答が寄せられた(同)。

今度五条県御取立に相成候に付ては、其県御管轄地の内地方万端御引渡方延刻之旨御掛合の趣承知致候、然る処当役所に於ても県御取立の義は御達有之候得共、知県事御入込且御引渡等の義は未だ御沙汰に不相成候に付、如従前奈良県出張所にて取計方致居申候、猶御模様相分り次第可及御報知候、此段御承知有之度候也

 五条県では、引渡しを受けるどころか、知事が着任せず、引渡しの沙汰書も届いていない。つまり四月二二日になっても県そのものが成立しておらず、依然として奈良県の出張所が事務を処理している始末だったのである。五月一三日になって、ようやく五条県は、堺県に次のように申し入れている(同)。

今般当県御取立に付、其御管轄の内、高二万三千石余高野山領の分共、請取方可申旨民部省より達に付、郷村並諸書物御引渡之期限御取極、早々御申越有之度候事(後略)

 引渡しの遅延は、堺県だけではなかった。大和国吉野・宇智両郡は藩領がなく、全域が五条県の管轄地となったが、吉野郡の十津川郷五九か村だけは軍務官の支配になっていた。太政官が五条県の設置を布達したのと同じ日に、兵部省に対して「今般大和国ニ五条県被建候ニ付、其省十津川出張所被廃候間此旨相達候事」(『法令全書』)という沙汰書が出され、十津川郷も軍務官支配から五条県に移管された。しかし、引渡しは遅れ、五条県は、五月一九日になって十津川郷に兵部省出張所の廃止と県出張所の設置を布達した(国立公文書館所蔵 中西孝則『十津川記事』下)。このように五条県は、三年四月末か五月初めになって、ようやく体制を整え、引渡しが完了するのは、五月末になったのである。

写真4 『十津川記事』下(国立公文書館所蔵)

 五条県は、一一万石余の小県であるが、大和・河内・紀伊三国に跨(またが)っていた。しかも、まとまった地域を形成しておらず、近世以来の支配も異なっていて、廃県と同時に大和国は奈良県、河内国は堺県、紀伊国は和歌山県と、解体編入しなければならなかった。このような不自然な県が置かれたのは、次のような不穏な情勢があったからである。

 明治二年八月、政府は、高野山領を公収し、当分の間、堺県に管轄させることにした。同年一二月、堺県は九度山(くどやま)村(現和歌山県九度山町)に出張所を設置して民政を移管し、旧寺領の行政権を掌握しようとした。しかし、出張所の費用や人件費の負担は重く、本山の行政担当者に支給されてきた給米を差し出させて人件費に充て、不足分を山領に負担させようとしたので、高野山の抵抗を招いた(『大阪府全志』一)。旧高野山領の管轄は、堺県にとって大変な重荷であった。大和の宇智郡や吉野郡には王政復古に際して由緒の復活を主張し、年貢免除を求める郷士の動きがあり、「浮浪無頼ノ徒潜伏、動(やや)モスレハ頑民ヲ煽動致シ不穏ノ苦情モ有之趣」(「民部省答議」『法規分類大全』警察門警察総)という状況を醸し出していた。

 なかでも十津川郷士は、文久三年(一八六三)八月、御守衛一七〇人が在京することになり、京都に屯所を設けた。その直後、大和五条で天誅組が挙兵すると、在郷の郷士は、檄に応じて挙兵に参加し大きな犠牲を被った。元治元年(一八六四)七月、禁門の変の直後、宮中に潜入して天皇を奪おうとする計画に参画した疑いを持たれ、帰郷の命を受けたが、自力で京邸を設営して京都にとどまった。慶応三年(一八六七)一二月、鷲尾隆聚が高野山出張の内勅を受けると、伏見駐在の十津川郷士は、陸援隊と共に鷲尾に従って高野山に赴いた。在郷の郷士も、鷲尾の命に応じて高野山に馳せ参じ、十津川郷士が鷲尾隊の主力となり、参謀・軍監・隊長などの役職の過半を占めた。慶応四年二月、鷲尾が親兵掛に任命されると親兵に取り立てられ、伏見練兵場に移り、六月、越後口への出兵を命ぜられ長岡・新発田(しばた)(ともに新潟県)の戦いで奮戦し、多数の死傷者を出した。その一方で、御所警衛にこだわり、伏見での銃隊訓練に反発する者も多く、明治二年三月、東京再幸には、伏見の郷兵数十人が水口(みなくち)(滋賀県)まで鳳輦(ほうれん)に追従して供奉を上願し、謹慎を命じられた。三月六日、十津川郷が奈良府の管轄に編入されると、在郷の郷士は、禁門警備・直轄領の回復などを求め、郷内は騒乱状態に陥った。五月、政府は、十津川郷を軍務官支配に移管し、一一月に軍務官鷲尾隆聚が入郷するとようやく鎮静化した。しかし、軍務官支配は、府藩県三治制にそぐわないものである。郷内がひとまず鎮静化すると、三年二月二七日、鷲尾を知事とする五条県が設置されることになった。直接支配の形をとどめておかないと騒乱が再発する怖れがあると考えた兵部省の意見が容れられ、四月二〇日、鷲尾が軍務官を兼任することになった。知事が軍務官を兼任することで、五条県は成立し得たのである。五条県が、三年四月末ごろまで機能しなかったのも、そのためである(服部敬「五条県の成立」『花園大学文学部研究紀要』三二)。表5にみられるように、本市域でも多くの村が五条県に編入された。しかし、その期間は短く、廃藩置県までの一年余にすぎない。しかも、まとまりが悪く、県治も不安定で、制度の整備ははかどらなかったと思われる。市域には新堂村平井四良(郎)治の第六大区三小区仮戸長の辞令が残されている(新堂平井家文書)(写真6)が、制度の詳細は不詳である。

写真6 明治4年 五条県第6大区3小区仮戸長任命書 (平井家文書、本章第1節参照)

 以上のように、高野山出張の実績を持つ鷲尾を軍務官兼知事とする五条県を設置することで、吉野・宇智両郡や旧高野山領を統治することが可能になった。河内国石川・錦部両郡は、これら諸郡のように統治困難な所ではなかった。しかし、先に述べたように、天誅組河内勢の関係者が鷲尾隊に加わっていたとすれば、五条県に編入された理由もそこにあったといえる。もっとも、藩は存続しており、天誅組に関係の深かった神戸藩領の村々は、五条県に編入されていない。