廃藩置県と堺県

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慶応四年(明治元・一八六八)六月二二日、大阪府堺役所の支配地を独立させて堺県が設置され、大阪府判事小河弥右衛門(おごうやえもん)(一敏)が知県事に任命された。当時、堺市街を貫く大小路が摂津国と和泉国の境界となっており、大小路以北は摂津県の管轄であった。明治二年(一八六九)二月二四日、大和川以南の摂津国住吉郡の地を堺県に編入したが、四年九月三〇日には、大和川をもって摂津・和泉の境界とすることになり、和泉国大鳥郡に編入された。二年八月二日、河内県が廃止され、堺県の管轄に移されることになり、堺県は、和泉・河内二か国を支配することになった。本市域の河内県管轄の村々も堺県の管轄に編入されるが、三年九月七日までは、旧河内県の役所跡に堺県八尾出張所が設けられ、旧河内県管下の諸願届などの事務を扱った。また、旧旗本知行地の村も、形式的には堺県管下に編入されたが、二年一二月に上知されるまで変化がなかった。二年八月、先にみたように、紀伊国高野山領が堺県の当分管轄に移され、一二月には一橋・田安・狭山の三藩が廃藩となり、和泉国の一橋・田安藩領、河内国の狭山藩領も堺県に移管された。三年二月二八日に五条県が設置されると、紀伊国の旧高野山領と膳所・神戸両藩領、旧狭山藩領以外の石川・錦部両郡が堺県から五条県に移管された。石川・錦部両郡では、旧狭山藩領だけが堺県に残されたことになる。

 四年七月一四日、廃藩置県によって府藩県三治制が廃され府県制となった。河内国の藩はすべて県に改められ、神戸藩・膳所藩・下館藩は、それぞれ神戸県・膳所県・下館県と称することになったが、一一月一五日、下館県が廃止され、茨城県の当分管轄となった。さらに、一一月二二日、太政官は次のように布達した(『法令全書』)。

今般山城国外十一ヶ国ノ内ニテ従来ノ府県ヲ廃シ、更ニ左ノ通府県ヲ被置候事

 但、廃府県従前管轄ノ地所当未年ヨリ物成・郷村等新置ノ府県ヘ可引渡事

 (中略)

 大和国一円                                     奈良県

 河内国一円 和泉国一円                               堺県

 (中略)

 紀伊国  伊都郡 那賀郡 名草郡 海部郡 有田郡 日高郡 牟婁(むろ)郡ノ内       和歌山県

右ノ通、府県被置候ニ付、従前管轄ノ府県ヨリ地所・物成・郷村等、当未年ヨリ可請取事

 但、高反別一村限村高等取調、大蔵省ヘ可差出事

 これによって従来の府県はすべて廃止され、新たに堺県・奈良県・和歌山県などが設置された。当市域でも、旧藩領から移行した神戸・膳所・茨城県(下館県)は勿論、先に設置された五条県も廃止され、全域が新たに設置された堺県の管轄になった。膳所県が実際に堺県に引き継がれたのは、一二月二五日であったが、錦部郡の旧膳所県一九村では、米価下落のため金納分の年貢納入が遅れ、督促を受けていたようである。その処理のこともあって、古野村(現河内長野市)の旧膳所県出張役場に堺県の出張所を置くことを嘆願している(彼方中野家文書「乍恐奉願上候」)。