明治四年(一八七一)一一月二二日、河内国・和泉国一円に堺県が設置され、県令に税所篤(さいしょあつし)が就任した。五年一月四日、堺県は、「一郡一人宛(ずつ)村総代ヲ置候間、人物公正着実ニシテ、一郡中ニテ人望半ハ帰嚮(ききょう)スル者、筆算ノ巧拙ニ不拘、自他村ノ差別偏顧(頗)ナク、公選入札ヲ以テ当正月廿日限リ可申出事」(山中永之佑編『堺県法令集』一)と布達し、郡ごとに村総代一人を設置し、公選することを管内に通達した。選出方法は、士族・平民を問わず、筆算の巧拙よりも公正で人望ある者を選出することとし、村役人・小前の別なく選挙権が与えられた。選挙の結果は、一村ごとに産土(うぶすな)神社の境内で村役人・百姓代・小前五人から一〇人が立ち会って開票し、その票数を報告することになっていた。錦部郡彼方(おちかた)村では、一月一二日、「河内国錦部郡村々惣代入札書上帳」(彼方土井家文書)を堺県に提出し、「今般一郡壱人宛村惣代を置候様被為 仰渡候ニ付当村百姓名(銘)々入札仕、左之通奉申上候」と選挙の結果を報告している。堺県の布達では「一村限村役人ハ勿論、小前不残入札相揃」(『堺県法令集』一)とされているが、入札者は一五人だけで、全員が「同郡錦部(郡)村田中源太郎江被為 仰付度候」と記している。
五年二月、堺県は、区制を定め、高一万石前後の村々を単位として県内を五四区に分けた。河内国は二九区に分けられたが、本市域に関係のある区は、次のとおりである(『大阪府全志』一)(傍線は富田林市域)。
錦部郡(二区・五〇か村)
第二十五区(二五か村 高九二九二石一斗一升五合六勺)
錦郡村 鎌郡新田 新家村 甲田村 板持村 彼方村 廿山(つづやま)村 加太(かた)新田 伏山(ふしやま)新田 市村 市村新田 太井村 小深村 向野村 伏見堂村 横山村 嬉(うれし)村 古野村 原村 河合寺村 鬼住村 寺元村 観心寺村 鳩原村 石見川村
石川郡(三区・四八か村)
第二十七区(六か村 高五三一四石三斗三升七合)
新家村 中野村 毛人谷(えびたに)村 喜志村 新堂村 富田林村
第二十八区 (二七か村 高九六二五石六升)
(東)板持村 山中田(やまちゅうだ)村 南大伴村 東山村 太子村 春日村 山田村 畑村 葉室村 山城村 大ヶ塚村 一須賀村 北別井村 南別井村 寛弘寺村 神山(こうやま)村 北大伴村
第二十九区(二五か村 高一万〇二二二石三斗四合)
龍泉(りゅうせん)村 千早村 桐山村 二河原辺村 水分村 中村 弘川村 森屋村 平石村 白木村 甘南備(かんなび)村 中津原村 持尾村 小吹村 東坂村 吉年村 川野辺村 芹生谷村 上河内村 下河内村 北加納村 南加納村 佐備村 寺田村 馬谷村
五年四月、区ごとに戸長・副戸長を置いたが、四月九日に太政官布告をもって庄屋・年寄の称が廃止され戸長・副戸長と改められると、堺県でも、五月、庄屋・年寄を戸長・副戸長と改め、区ごとに置かれた戸長・副戸長は、区長・副区長と改められた。五月現在の石川郡・錦部郡の区長・副区長は次のとおりであるが(『美原町史』一)、必ずしも区ごとに区長・副区長が一人ずつ置かれたのではなく、区長を置かず副区長を二人置くところもあった。
第二十五区 区長 錦郡村 田中源太郎 副区長 市村 杉村熊蔵
第二十六区 副区長 長野村 吉年泰造(蔵) 副区長 三日市村 南文次(治)
第二十七区 副区長 富田林村 仲村徳平 副区長 新堂村 平井四郎次
第二十八区 副区長 北大伴村 芝野七郎 副区長 山中田村 杉山安次(治)
第二十九区 副区長 甘南備村 松尾翠 副区長 中津原村 谷喜一
戸長・副戸長は、高一〇〇〇石内外の村に一人ずつ置かれ、一〇〇〇石に満たない村は、一〇〇〇石を目安に二か村以上を連合させて戸長・副戸長一人を置いた。その人選は、村または村連合内の選挙によって選ばれた者を県令が任命した。また、家数五軒を標準として編成される伍人組の長である伍長は組内で選挙し、区長が任命することになっていた(『大阪府全志』一)。