戸籍の編成

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明治四年(一八七一)三月、堺県は「戸籍編製規則」を定め、戸籍の編成に着手した(『堺県法令集』一)。戸籍は、一町村一冊とし、所役人が編成する。表紙には何国何郡何町村戸籍と表題をつけ、その右側に年月、左側に編成担当者の氏名を書くことになっていた。各戸ごとに氏神・旦那寺を記載し、伍組ごとにまとめて、その後に伍長を筆頭に戸主一同が署名捺印する。出生・死亡などの異動は、伍組から所役人に届け出ることになっていた。戸籍の用紙は、美濃紙二つ折りを用い、上四分の一の所に墨線を引き、上の欄に職業や家屋敷・田畑・山林・船・牛馬など家産を詳しく記入する。下欄は、下四分の一ほどのところに人名を一ページに五人の割合で書き、その脇に年齢を記し、上に生死・嫁娶(かしゅ)・廃疾などを記入する。「戸籍編製規則」には、「戸籍仕立の順序ハ、平民・神職・修験者・僧尼・穢多(えた)・非人・来住人・奉公人・惣寄、如斯(かくのごとく)取調へし」「穢多・非人の徒も其町村戸籍之末へ加ふへし」という条項や、「一冊の内を三分ニして、地主戸籍・借地戸籍・借家戸籍と見分け安き様認へし」という条項があり、身分差別を残す戸籍であった。「戸籍編製規則」の最後には「右戸籍の義ハ、永世之御記録庶民の系譜たり、人民御保全之叡旨を奉躰認、仕法之通聊(いささか)も不可怠もの也」と記されており、堺県は戸籍編成に意欲を燃やしていた。五年四月ごろには編成を終え、二部作成して一部を県に提出し、一部は村に保存することになっていた。

写真5 明治4年「戸籍編製規則」(土井家文書)

 明治四年の戸籍は、各地で編成されているが、全国統一して作成されたものではない。明治二年二月五日、政府は「府県施政順序」を定めて、府県が実施すべき施政の大綱を示した(『法令全書』)。その中に、「議事ノ法ヲ立ル事」「凶荒預<ママ>防ノ事」「窮民ヲ救フ事」「制度ヲ立風俗ヲ正スル事」「小学校ヲ設ル事」などと共に「戸籍ヲ編制戸伍組立ノ事」として挙げられているものである。これは一律に強制するのではなく、むしろ「一件施行シ稍(やや)其事ノ挙ルヲ見テ又次件ニ及ヘシ、一時卒易ニ施行スルヲ禁ス」と、安易な施行を禁じている。当時本市域の大半が所属していた五条県は、難治県で新しい政策を打ち出すことは困難であり、四年戸籍は編成されなかったものと思われる。旧狭山藩領は堺県の管轄になっており、堺県から「戸籍編製規則」が配布された(彼方土井家文書)。膳所(ぜぜ)藩・神戸(かんべ)藩領でも、明治四年に戸籍が編成されているが、氏神が旦那寺と併記されているものの、家産などの記載は一切なく、堺県や兵庫県の「戸籍編製規則」とは別の形式のものである。

 堺県が戸籍編成に着手して間もない四年四月四日、政府は戸籍法を公布し、五年二月から全国的に戸籍の編成にかかるように命じた。戸籍法は、堺県の「戸籍編製規則」と違って「臣民一般華族・士族・卒・祠官・僧侶・平民迄ヲ云、以下准之其住居ノ地ニ就テ」編成することになっており、そのために「各地方土地ノ便宜ニ随ヒ予(あらかじ)メ区画ヲ定メ、毎区戸長並ニ副ヲ置キ、長並ニ副ヲシテ其区内戸数、人員、生死、出入等ヲ詳ニスル事ヲ掌ラシムヘシ」(『法令全書』)とした。堺県においても、前述のように区制を実施していた。五年五月、区の戸長・副戸長を区長・副区長と改め、村の庄屋・年寄を戸長・副戸長と改めるが、戸籍も区ごとではなく、町村単位で編成されることになった。この戸籍は、明治五年が壬申(じんしん)の年であったので、一般に「壬申戸籍」と呼ばれている。壬申戸籍には、記載事項に氏神・旦那寺・族籍・職業が残されているが、財産の記載はなくなっている。戸籍法は三三則からなり、さまざまな事項について細かく規定していたが、そのいくつかは、明治四年中に削除され、五年一月には「戸籍法中心得方及改正」(『法令全書』)によって一部が改正された。

 富田林村は、近世以来、在郷町として発展し、明治七年の「一村限調帳」(近代Iの一)によると、地券反別八町一反四畝七歩のうち七町九反二畝一八歩が屋敷地で、残り二反一畝一九歩が畑・藪地であった。近隣から商人として移住して来る者も多く、人家が過密になって、他村の隣接する地所に家作をして居住する者もあった。戸籍が編成されると、彼らも、富田林村民として富田林村の戸籍に登録される者が多かった。実際の居村から送籍を求められることも多かったが、彼らは富田林商人として遠隔地とも取引をしており、帳簿は勿論、割印などもすべて「冨何某」となっていた。そこで彼らは、他村戸籍に編入されると混雑が生じ、商業活動にも影響するとして、従来どおり富田林村戸籍にとどまりたいと村役場に申し出た。富田林村では、七年一一月二四日、副戸長・戸長・副区長が連署して、その許可を府知事に願い出ている(近代Iの二「御願書」)。