一村限調帳と村誌

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明治七年(一八七四)、堺県は、三度にわたって村々の村勢の概況を報告させている。その名称は、「一村限取調帳」「一村限調帳」「何村取調帳」などとなっているが、内容はほぼ一定しており、雛形に忠実に作成されたようである。最初のものは明治七年五月に作成されており、本市域でも龍泉村(岸之本谷口家文書)・彼方村(彼方土井家文書)のものが残されている。作成を指示した文書は不明であるが、記載項目は、境界・里数・周囲・県庁迄里数・戸数・人口・神社・寺院・土産・牛馬数・船車数・銃砲・産業・橋梁(きょうりょう)・渡船・帝陵・反別・旧高で、県令あてに提出したものである。次いで七月二〇日、堺県は、「今般左之廉々一村町限取調、来ル八月二日迄ニ可差出事」と布達し、「何町村限調帳」の雛形を示した(岸之本谷口家文書)。記載項目は、郵便取扱所・小学校・電信線・耕宅地税・山野税・造酒税・醤油税・車税・馬税・僕婢税・地形・沿革・検地・耕宅地・名山・大山・名河・大川・官林・港湾・渡津・堤防・砲台・灯明台・旧跡・瀑布・公園地である。七年七月から八月にかけて、この雛形に従って「一村限調帳」が作成されており、彼方村でも八月、戸長・副戸長が連署して県令に提出している。さらに一〇月、これらを総合した「一村限調帳」を作成し、提出させている(近代Ⅰの一「一村限調帳」)。

写真8 明治7年「一村限調帳」(杉本家文書)

 明治初年には、文部省の『地理誌略』編集、陸軍省の『全国地理図誌』編集、太政官正院の『日本地誌提要』編集など、「一村限調帳」と類似の調査・編集がいくつか行われている。『日本地誌提要』の編集を終えると、政府は、八年六月五日に太政官達第九七号をもって「皇国地誌編輯(へんしゆう)例則」を布達し、府県に対し「村誌」「郡誌」の提出を命じた。「村誌」については、「全村ノ景状ヲ知ランヲ欲ス、故ニ本例ニ照準シ、細密ニ之ヲ記シ、遺漏ナカランヲ要ス」(『法令全書』)として四八項目を挙げて、雛形を付している。各府県はこれに従って「村誌」の編集に着手するが、編集を担当する地誌課の所属が転々と変更されるなどの事情もあり、実際に提出されるのは一二年以後になる。「一村限調帳」の調査項目には、「村誌」の調査項目である地味・字地・湖沼・道路・町村会所がなく、旧高・検地・橋梁が加わるなど、若干の相違はあるが、その形式・内容とも極めて類似している。これは、陸軍省や太政官正院の地誌編纂の影響であると思われるが、「一村限調帳」は「皇国地誌編輯例則」の公布以前に編集されており、独自のものであったといえる。また「一村限取調帳」は、五小区五番組・七番組・九番組のように組合村ごとに一冊にまとめられているところも多い(富田林市所蔵旧鳴川家文書)。したがって、「一村限調帳」の編集は、大小区制・組合村制の実施にあたって、組合村ごとに村々を掌握しようとする意図から、堺県が独自に編集したものであるといえる。

 堺県は、明治一〇年に「村誌」に類似した項目を挙げて報告させているが(『忠岡町史』三)、一三年三月には「村誌例則」を配布し、県令に報告させている(河内長野市所蔵旧三日市役場文書)。その項目は、疆域(きょういき)・幅員・里程・地勢・地味・税地・飛地・字地・貢租・戸数・人員・牛馬・舟車・山・川・橋・森林・原野・牧場・道路・湖沼(池)・堤防・社寺・古跡・学校・会所・掲示場・物産・民業などで、村の概要と管轄沿革を除けば、村誌とほぼ同じであった。大阪府は、一四年二月に堺県を合併すると、同年七月一日に旧堺県下に改めて「地誌編輯例則」を布達し、「村誌」の提出を求めた。錦部郡諸村は、一五年三月、村の概要を除いた草案を郡役所に提出し、七月には概要を付した「村誌」を作成し、末尾に編集人の氏名を記して提出している(同)。本市域でも、龍泉村では一五年四月に「村誌例則」に必要な事項を加筆して「村誌」(岸之本谷口家文書)を作成しており、北大伴村は、一五年六月一九日に「村誌」(北大伴三嶋家文書)を大阪府知事に提出している。記載項目は、「村誌例則」の項目のほかに周囲・管轄沿革・鉱山・港滝・陵墓・郵便局・製糸場・大工作場・官用地・城地・気候・風俗・人物・名勝・宿所などがあり、山・森林・原野・牧場・鉱山・港滝(湾)・陵墓・社・学校・郵便局・製糸場・大工作場・官用地・城地・人物・名勝・宿所・古跡は空欄となっている。周囲・気候・風俗は、明治八年六月五日太政官達第九七号に掲げられた「村誌」の項目に見当たらないものであるが、気候・風俗は一二年以降に作成された府下の「村誌」に一般にみられる項目である。周囲は他の「村誌」にはみられず、「一村限調帳」の項目が残ったものと思われる。記載内容についてみれば、管轄沿革が『大阪府全志』に比べて詳細に記されているにもかかわらず、大坂城代の役知が欠落するなど、正確を欠くところがある。しかし、明治前期の村況を知る上で、「一村限調帳」と共に貴重な史料であることはいうまでもない。

写真9 明治15年「村誌」 (谷口家文書)