堺県は、明治九年(一八七六)四月一七日に奈良県を合併すると、七月一三日、「県会仮規則」を制定して県会を開設した。最初の県会は、九月二五日から一〇月六日まで開かれ、大小区制の改正を決議した。「県会決議録」(『忠岡町史』三)によれば、和泉国第一大区を除く全管内を、和泉二、河内三、大和五の一〇大区に分け、さらに大区を三小区に、小区を六聯合村に分けることになっている。区画は、土地の広狭よりも戸数・人口によることとし、大区は、戸数一八万九八八二戸、人口八六万九四九五人、面積九万八三七三町四反歩を基準とし、小区は戸数六三二九戸、聯合村は一〇五四戸を基準とする。大区には区長一人、小区には副区長二人、出張(納ヵ)掛一人、聯合村には戸長一人、副戸長二人、出納掛一人、戸数一〇〇戸に一人の割合で総代を置き、小区には区務所、聯合村には村務所を設置することになっていた。
一〇月二四日、堺県は、区画の変更を布達し、県会議決どおりに大区を定めることにしているが、大区を一〇小区に分けることになっており、聯合村には触れていない(『堺県法令集』二)。翌二五日、河内・和泉の大区の区域に変更がないことを布達し、一一月一五日には、「今般各小区之区域、別冊之通相定候条、此旨布達候事」と小区の区分けを発表したが、一二月七日、「今般詮議之次第有之、泉州第一大区を除くの外、河・泉両国各小区は従前之侭(まま)据置、聯合は相廃し候」と布達して小区を従来のままとし、組合村を廃止した(『大阪府全志』一)。一〇月二七日の堺県布達では、大区に区長一人、小区に副区長一人と戸長・副戸長二人、出納役二人を置くことになっていた。従来の村役場は廃止するが、村には総代一人を置き、戸数や地形によって増員を認めることになった。また、区長以下の給料・旅費、学務取締・教員・学校世話掛の日当、その他の課出金の出納を担当するために県庁詰出納役三人を置いた。区長は県庁に在勤して大区内の事務を総轄した。なお、河内国第一大区の区長には、九年一二月一一日、沢田又七が任命されている(『堺県法令集』二)。副区長は小区事務所に出勤して小区内の事務を総轄し、戸長も小区事務所に出勤して小区内の事務を分担し、副戸長がそれを補佐した。区長は大区中から、県庁詰出納役は一国中から選出し、副区長・戸長・副戸長・小区出納役は小区中から選出するが、その選挙・被選挙権は不動産所持者およびその質取人に限られていた。総代は、町村の庶務を担当し、学校世話掛・道路修繕掛なども兼任した。九年一二月二八日の規程では、その任期は二年で、区戸長の選挙に準じて選出するが、開票は小区事務所で副区長・正副戸長および村の百姓総代二人の立会いの下で行うことになっていた(『堺県法令集』二)。一〇年七月の改正で、総代五人が毎日小区事務所に出勤して事務を取り扱うことになり、身分も副戸長に準ずることになった(『堺県法令集』三)。組合村の廃止によって、小区が行政の単位となったが、範囲が広くて十分機能したとは思われず、実際には依然として町村がその単位になっており、総代の役割は大きかったといえる。