明治一一年(一八七八)七月二二日、「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」の三新法が公布された。郡区町村編制法によって大区・小区が廃止され、町村が、行政の単位としての法的地位を回復することになった。府県の下に郡区・町村を置き、郡・町村の区域・名称は従来のままとし、郡には郡長一人、区には区長一人を置くことになったが、小さい郡の場合は数郡に郡長一人を置くことができた。町村には戸長一人を置くのを原則としたが、数町村に一人の戸長を置くこともできた。堺県では、一二年二月二〇日に郡区編制の調査に着手し、戸口の多寡(たか)、民情の異同、地勢道路の便否を参考にして郡区を編制し内務卿の許可を得た後、一三年四月一五日に「当県従前之区画ヲ廃シ、左之通郡区編制候条、此旨布達候事」(『堺県法令集』四)と、新しい郡区を布達した。こうして一区九郡が編制され、河内国には、古市・八尾・枚方(ひらかた)の三郡役所が置かれることになった。
石川・古市・安宿部(あすかべ)・錦部・八上(やかみ)・丹南・志紀の七郡の郡役所は、古市郡古市村(現羽曳野市)真蓮寺に置かれ、本市域は、すべてその管轄に入ることになった。郡役所名はその各郡の名称を冠して、石川・古市・安宿部・錦部・八上・丹南・志紀郡役所と称したが、古市郡役所と呼ばれることも多かった。区には区長、郡には郡長が置かれたが、大小区制の区長・副区長が民選であったのに対して、区長・郡長は官選で、石川・古市・安宿部・錦部・八上・丹南・志紀郡の初代郡長には稲垣謙蔵が任命された。郡区長の公選を求める声は強く、堺県が大阪府に合併された直後の一四年七月、大阪府会は、「郡区長公選ノ建議」を可決して内務卿に提出した(『大阪府会史』)。一三年四月二一日に堺県は、「郡区長職務概目」(『堺県法令集』四)を布達し、郡区長の管掌事務を定めているが、その内容は、徴税・徴兵事務をはじめ多岐にわたっている。
一四年二月、堺県は大阪府に合併されるが、そのころから石川・錦部両郡で郡役所を富田林に移転する運動が高まった。三月、第四聯合では、移転に熱心な府会議員を選出するため、投票用紙を配布するにあたって、村総代宅に有権者を集め、杉山安治の名前を書き捺印させたようである(富田林杉本家文書「日新誌」)。杉山は、八二八票中七九七票を得て当選したが、聯合内には批判もあり、このことが『大阪日報』(明治14・3・11)に報じられると、郡役所が調査に乗り出した。しかし、古市は東北に偏し、輻輳(ふくそう)の地ともいえず、管内第一の市街地で交通の要所である富田林への移転は趨勢(すうせい)となっていた。一〇月二日の『大阪日報』は、「河内国古市郡役所ハ同郡富田林へ近日移転なる由」と報じており、府庁でも調査を進めていた。一五年五月一五日、大阪府会に溝端佐太郎・西端喜之治の両議員が移転意見書を提出した。東尾平太郎らが反対したが、意見書は、反対わずか二人で採択された。古市郡諸村は反対の嘆願を繰り返したが認められず、一六年一月二〇日、郡役所は富田林に移転した。富田林郡役所は、当初、富田林御坊に置かれたが、富田林町西林に土地を買収して新築した(『富田林市誌』)。敷地面積は四一七坪(一三七八・五平方メートル)、庁舎は木造瓦葺平屋七棟で、建坪一三六・八坪(四五二・二平方メートル)で、費用は総額二二一三円三〇銭、そのうち一四〇〇円が地方税から支出され、残り八一三円三〇銭は寄付金で賄われた(新堂平井家文書『明治廿四年大阪府石川・錦部・八上・古市・安宿部・丹南・志紀郡役所統計書』)。工事は、一八年八月九日に始まり、一〇月三〇日に竣工して(同)、一一月一日に竣工式を挙げた(「日新誌」)。